days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

いわゆる学会の「印象記」というものについて

学会の刊行物に掲載される、研究報告に関する印象記のあり方についての日比さんの問題提起。

学会向け批評記事のウェブ先行公開は、愚挙なのか - 日比嘉高研究室


依頼を受けて書いた文章を(バージョン違いとはいえ)依頼元より先に公開しちゃまずかろう、というのはまあ当たり前として、こういう文章が閉ざされた場で一方通行的に言いっ放し、書きっぱなしになっているのはどうなのか、という主張はよくわかる(実際、たまにずいぶんひどい文章もあったりするし)。


それに、学会報告の要旨と印象記がセットになってネット上で公開されていれば、学会に足を運んでみようかな? とか、入会しようかな? などと考えている人に向けては、よい宣伝材料になるだろう(実際、私が関わっている坂口安吾研究会という小さな研究会では、ずいぶん昔からネット公開している。)

坂口安吾研究会ウェブサイト  研究会のこれまでの活動


ネット上で大々的に公開され、会員外の人の目にも触れる、となると、印象記そのものも、より広く批評・批判にさらされることになるのだから、発表者も印象記の書き手も、それ相応の緊張感を味わうことになる(安吾研で研究発表や印象記執筆の依頼をするとき、こういう緊張感についての感想を伝えられることは少なからずある)。基本的にこれはよいことだと思う。


ただ、一つひっかかるのは、果たしてこういうものは速報性が高ければ高いほどよい、と言えるのかどうかということ。


確かに前年秋に行われた学会の印象記が翌年4月になってから公刊される、といようなことだと、年度も変わってしまうし少し時季外れな感じがしなくもない。


しかし、一方であまりにも早くレビューがネット上で公開されるというのも、場合によっては感情的なやりとりを誘発して「炎上」案件とかになりそうで、ちょっと気がかりではある。


近年、「○○論争」のようなものがアカデミックな場で成り立ちにくいのは、やりとりの速度の速いインターネットを介すると、結局ただの「炎上」にしかならず、議論らしい議論など成立しないことがわかっているからではなかろうか(だから、運営・編集サイドでは近年、積極的に「論争」的な場を作ろうという発想になりにくいのだと思う)。


一方、(これはよいことだが)学会の大会・例会の規模が近年、拡大傾向にあって多くの研究発表が行われるようになってきていることを思えば、もはや従来の(紙媒体の)形式での「印象記」という枠組みの中には、情報がそもそも物量的に収まらなくなってきているのは事実かもしれない。


いずれは必然的に、学会の会員にはメールマガジン形式で先に配信し、その後ウェブサイトで一般公開、といったような形式に移行していくのではないだろうか。そうなれば印刷・郵送といった段取りがなくなり、情報公開のスピードも程よく上がることだろう(繰り返しになるが、安吾研のような(お金も人手もない)小さな研究会では、もうずいぶん前からやっていることだったりする)。


まあ、いまは過渡期なのかな、と思ったりします。