days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

『戯作者の命脈 坂口安吾の文学精神』「あとがき」より

坂口安吾が一九四一年に記した「ラムネ氏のこと」(『都新聞』1941年11月20~22日)というエッセイがある。新聞の片隅に三日間にわたってひっそりと掲載された、ごく短い文章であるが、一九七〇年代後年以降、高校国語の教材として教科書に採録され続けてきたこともあり、安吾の文章としては今日、広く読まれているもののひとつである。

 

全体は、「上」「中」「下」の三つのパートからなる。

 

「上」は、安吾三好達治の世話で小田原に仮寓していたころ、小林秀雄島木健作とが訪問してきて、三好の家で四人が歓談したときの挿話である。三好がラムネ瓶の蓋になっているガラス玉を発明したのは「ラムネー氏」という人物だと力説したが、安吾が後日調べてみると、それは間違いだった。しかし、どこの誰だかわからなくとも、とにかく発明者がいたことは確かであり、すべての事象の背後には歴史があるのだというテーゼが、ここから導出される。例えば、毒を避けてフグを食す文化の背後には、毒の犠牲となりつつ、フグ料理を完成させる未来を子孫に託した者たち、すなわち無数の「ラムネ氏」たちの歴史があったはずだ、というように。

 

「中」は、場面変わって信州の奈良原鉱泉に逗留した折の挿話である。宿で連日、素性の明らかでない茸を食べさせられ困惑していると、部落で茸とりの名人として知られる老爺が茸にあたって死んでしまう。しかし、それでも人々は躊躇なく茸を食べ続けていた。このような、笑うに笑えない話が紹介された上で、この村には「ラムネ氏」=先駆者の歴史がなかった、とされる。

 

「下」では、さらに話題が変わる。三百年以上前、布教のために日本へやってきた切支丹たちは、キリスト教の説く「アモール(ラヴ)」に相当する語が日本語になく、「愛」といえば「御法度」だった不義密通を意味してしまうために難儀したが、苦心して「御大切」という訳語を編み出した。このような挿話が紹介された後、しかし「愛」を単に邪なものとして退けるのではなく、それを果敢に文学の中で描こうとした戯作者たちがいたということが強調される。そして、彼らもまた、「物のありかたを変へてきた」という意味で「ラムネ氏」である、と結論づけられることになる。

 

このエッセイが巧みなのは、ラムネ玉の発明者に関する三好達治の力説が実は間違いだった、という最初の挿話のオチが、エッセイ全編を貫く論理を明確に示すものになっているからである。

 

目の前にラムネ玉という事物は確かに存在している。そして、存在している以上、どこかのだれかが(あるいは、「だれか」たちが)、それを開発したという歴史がある。それがもはや、どこのだれだかわからなくなっているとしても、そこには確実にひとつの命脈があるのだ。多くの歴史資料にあたり、あるいは歴史ゆかりの土地を実際に踏査しながら歴史小説ルポルタージュをくり返し書いた坂口安吾という小説家が、「歴史」というものをどのように捉えていたのか、と考える上で、このエッセイが示唆するところは興味深い。安吾の書く「歴史」は、まさに「ラムネ氏」の足跡をたどるような試みなのだと言えよう。

 

一方、別のエッセイで安吾は、作家である自らが書きつけ、書き飛ばしていった文章について、次のように記している。「芸術は長し、人生は短しと言ふ。なるほど人間は死ぬ。然し作品は残る。この時間の長短は然し人生と芸術との価値をはかる物差とはならないものだ」(「教祖の文学」、『新潮』1947年6月)。すなわち、文学作品とは作家が身過ぎ世過ぎのために売った「商品」に過ぎないのであり、「余の作品は五十年後に理解せられるであらう」などという「アンリベイル先生」=スタンダールの言葉が退けられることにもなる。

 

この文章は、「骨董」を鑑定するように芸術を論ずる、戦後における評論家・小林秀雄の態度を批判する文脈で書かれたものである。とはいえ、文学研究を行う者からしてみれば、「作家にとつて大切なのは言ふまでもなく自分の一生であり人生であつて、作品ではなかつた」、などという断定的な言葉には、とまどわざるを得ない。文学作品を読み、それを論ずることは無意味だということになってしまいかねないからである。安吾は、文学とは「歴史」と無縁なものだと言いたかったのか?

 

しかし、ここで改めて「ラムネ氏のこと」における安吾の主張を突き合わせてみたら、どうだろう。近世の戯作者たちこそは、身過ぎ世過ぎのために作品を「商品」として売りながら、同時に「御法度」に対して果敢に挑戦した先駆者だったのではなかったか。

 

ここで留意しておくべきなのは、「ラムネ氏のこと」において安吾が、戯作者たちの固有名を一つも挙げていなかったことである。その意味で、戯作者たちのなりわいはここで、フグ食文化の開拓に貢献しつつ自らは毒に当たって死んでいった無数の、そして無名の人々と等価なものと見なされていることになるだろう。

 

安吾は「常に自ら戯作者を以て任じてい」た(「戯作者文学論」、『近代文学』1947年1月)。そんな彼にとっては、自らが書く文学作品もまた、無数の/無名の人々が残していった文章と等価なものとして残ればよいのであり、特別な名匠が残した価値ある「骨董」のように扱われてはかなわない、ということになるのだろう。このように考えるなら、二つのエッセイの内容は矛盾することなく連続するものであるようにも見えてくる。

 

ここでさらに、安吾が自伝小説「暗い青春」(『潮流』1947年6月)の中で、次のように記していたことを想起しておいてもよい。語学学校アテネ・フランセに通い、そこで出会った友人たちと交流する中で本格的に文学の道を歩み始めた頃のことを回想した文章である。

 

我々の一生は短いものだ。我々の過去には長い歴史があつたが、我々の未来にはその過去よりも更に長い時間がある。我々の短い一代に於て、無限の未来に絶対の制度を押しつけるなどとは、無限なる時間に対し、無限なる進化に対して冒瀆ではないか。あらゆる時代がその各々の最善をつくし、自らの生を尊び、バトンを渡せば、足りる。

 

これは、若き日の安吾が時代の趨勢であったマルクス主義に対してなぜ関心を持たなかったのか、その理由を語る文脈の中で記された言葉である。マルクス主義という一つの真理、一つの正しさによって世界を捉えようとするのは「冒瀆」だという表現は、いささか強すぎるようにも見える。しかし、安吾が捉える「歴史」とはマルクス主義という真理/正しさによって構造化され、メタレヴェルから語られるべきものではないのだ。それは、無数の/無名の「ラムネ氏」たちが「各々の最善をつくし、自らの生を尊び、バトンを渡」す、その反復の中にこそある。

 

そうだとすれば、坂口安吾の文学的営為を受け止めるわれわれもまた、一人の「ラムネ氏」としての安吾から「バトン」を渡されたその感触をそのまま受け止めればよいのだし、またその感触を説明することに「最善をつくし」、次なる読者に向けてさらに「バトンを渡せば、足りる」のではなかろうか。

 

「ラムネ氏のこと」の末尾近くで、安吾は次のように記している。かつて、時の権力が提示する正義に従わず、「ともかく人間の立場から不当な公式に反抗を試みた文学」があった。それを書いたのが「戯作者」である。もちろん「戯作者のすべてがそのやうな人ではないが、小数(※原文ママの戯作者にそのやうな人もあつた」。すでに確認したように、それが具体的に誰を指すのか、安吾は特定の戯作者の名を挙げることはしない。それをすれば、たちまちその戯作者の作品が「骨董」になってしまいかねないからだろう。

 

果たして、本書で坂口安吾という小説家とその作品を論じる手つきが、「骨董」を賞翫するそれになっていなかったかどうか、少し心許ないところはある。しかし、行論の上で特定の作品に焦点を絞ることはあったとしても、それを作家の名の下に無条件に価値付け、称揚するようなことはしていないはずだ。むしろ、本書においてしばしば行ったのは、坂口安吾およびその作品を、同時代を生きた他者の存在およびそれらの人々が残した言葉と等価なものとして横並びに置き、検証していくというやり方だった。そのため、叙述はときに右往左往し、坂口安吾という作家から離れて旋回する箇所も生じている。しかし、あえてそのような書き方をとることで、狭義の「小説家」の枠組みに収まることなく多くのテクストを書き残した坂口安吾の軌跡を、一人の「ラムネ氏」のそれとして記すことができたのではないかと考えている。

 

『戯作者の命脈 坂口安吾の文学精神』(2022年5月、春風社)「あとがき」より