days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

「今、福島で何が起きているのか」

パネルと写真展「第五福竜丸―福島 1954. 3.1-2011. 3.11」を観に行き、
そこで開催されていたトークセッション「今、福島で何が起きているのか」
にも参加していました。


講師は山田真さん(小児科医・子どもたちを放射能から守る全国小児科医ネット
ワーク)。お話は、本来放射線関係の専門医ではない山田さんが、福島での
健康相談会に関わることになった経緯と、その立場から見る福島の現状について。


以下はそのお話の内容(全部を網羅したものではありません)のメモと
個人的な感想です。




山田さんによれば、いま福島では多くの人が「福島は大丈夫」「福島は安全」と
口にしているのだという。それは、そのように口にし、考えていなければ生活して
いけない、という切実な思いから発せられる開き直りにも似た言葉だけれど、
一方で、子どもの体調不良を目にし、不安に駆られる親たちもいる。


問題は、そうした親たちに対して医者が「大丈夫、心配ない」という言葉ばかりを
繰り返し、不安を抱える親たちの声を聞き取ろうとしないこと。むしろ、そのような
声を上げることそれ自体が、バッシングの対象になってしまうのだという。


山田さんは、こうした親たちの声を聞き取るべくスタートした健康相談会の場に
関わることで見てきた福島の現状を、様々な場で伝えているのだという。


たしかに、津波の被災地に比べれば、福島は目に見える物理的な破壊の傷跡は
少ない。しかし、言うまでもなく、放射能汚染の問題は目に見えるものではない。


しかも、一気に大規模な被曝をするのではなく、低線量被曝が長く続いた場合に
どのようなことが起こるのか、ということは、誰も知らない。これぐらいの量まで
なら大丈夫で、これ以上は危険、というような〈数値〉には何の根拠もない。


山田さんはこのことを、タバコと肺がん発病の関係についての話を引き合いに出し
ながら語っていました。


いまや、多くの人がタバコと肺がんの関係について認識している。そして、実際
喫煙者は大きく減少しているし、社会の中でも喫煙行為には大きく制限がなされる
ようになってきている。


とはいえ、いったい一日に何本以上吸ったら肺がんになるのか、というと、実は
答えはない。ものすごいヘビー・スモーカーでも肺がんになるとは限らないし、
逆に、それほどの本数を吸っていない人でも肺がんで死ぬかもしれない。


そうである以上、一日何本以上の喫煙は危険、というような〈数値〉を出すことは
出来ない。いわばそれは単に「運」の問題であって、〈数値〉によってコントロール
出来るようなものではない。


しかも、放射線被曝の問題はタバコと違って、自らの意志で「やめる」ことは出来
ない。


だから、〈数値〉の問題は「安全」を保証するためのものではなく、あくまで
早期発見・治療開始のためのものでなくてはならないのだと、山田さんは説く。


むしろ、明確な〈数値〉を出すことばかりを追求すれば、その〈数値〉には該当しない
けれど、発病した(かもしれない)という人に対する補償を排除することにもなる。
そして、このことは補償対象をなるべく少なくしたいと思う側(行政・企業)の側に
有利な状況を招いてしまう…。


山田さんが言うのは、今後必要とされるのは、一律の基準値をベースにした集団検診
のようなものではなく、あくまで各個人が信頼できる開業医(かかりつけのお医者さん)
との関係の中で、ささいな異常でも見逃さないような診療を受けるべき、ということ。


残念ながらすでに放射能はばらまかれてしまっているし、基準値をどのように設定
しても、その数値に絶対性はない。相対的に測定数値の低い場所に移転したとしても、
それで安全が約束されるわけでもない。


最近読んだ、こんな言葉を思い出します。

 震災でぼくたちはばらばらになってしまった。
 それは、意味を失い、物語を失い、確率的な存在に変えられてしまったということだ。
 (東浩紀「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」
  『思想地図β』2 2011・9)


そうだとすれば、必要なのはただ数字に一喜一憂することではなく、自分自身や自分の
家族の身体にこれから起こってくるのかもしれない変化の兆候を見逃すことなく、
その兆候についてきちんと相談し、対策を講じることができるような回路を、自らの
社会関係の中に確保しておくべきなのでしょう。


しかし、そのような社会関係のネットワークはどのように構築可能なのか。
これは単に、「各自、よいかかりつけ医を見つけよう!」ということでは
ないはず。


山田さんの話をうかがいながら、一人の親として、そんなことを思ったのでした。