days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

制度としての「読書」をめぐって―共同研究の構想/夢想

学校、軍隊、企業など、ある集団に属する人間にある種の教養や認識、思考の枠組みといったものを「教育」として施そうとするとき、教育者は被教育者に対して、しばしば「読書」という行為を求める。そこでは読むべき書物がリスト化され、それらを読み進めることが価値ある行為であると見なされる。つまり、「教育」の場における「読書」とは、被教育者の「自発的」な行為によって、教育者の求めるディシプリンを内面化する装置に他ならない。

 一方で、ある種の「読書」は忌避すべき行為として戒められることもある。読むべきではない/読んではならない書物がリストアップされ、そのような書物を読む行為が反社会的あるいは反倫理的行為として指弾されることもある。そのような書物を流通させることや所持することを規制し、厳しい処罰を与える法制度が整備されることもある。そのとき「読書」は権力に対するプロテストとしての意味を帯びるだろう。

 従来、文学研究とはまず何より、文学作品の中に何が書かれ、それがどのように読まれたのか/読み直しうるのか、ということを中心に展開されてきたところがある。文学作品の意味/価値を論じるとき、その根拠を作者の側に求める(作家論)にせよ、逆に読者の側に求める(受容論)にせよ、そこではまず何より、個別その作品の意味/価値がどのように生成し、またその意味/価値に関する解釈がいかに変容するのか、あるいはしないのか、ということをめぐる議論の精緻化が目指されてきた。言い換えればそれは一篇のテクスト、一冊の書物をめぐる議論の蓄積である。

 しかし、言うまでもなく書物は他の書物と共に書棚に並ぶ。書店で、図書館で、あるいは教育者が作った読書リストの中で、一冊の書物は様々な別の書物と束ねられ、一定のコンテクストの中に組み込まれる。そして、そのような束としての書物(群)は、それ自体が一定のメッセージを発信する装置となる。このような装置が発動させる〈制度としての「読書」〉と、一篇のテクスト、一冊の書物をめぐる議論を積み重ねてきた文学研究とをどのように架橋させることができるだろうか。

学校や図書館といった場から発信される望ましい読書、政治イデオロギーや社会規範(暴力・性など)の観点から法的にあるいは行政によって禁じられる忌むべき読書など、時代と社会の中で、行為としての読書はさまざまな形で現象し、変容してきた。そして、こうした「読書」という場において、しばしば文学は、強く推奨されるにせよ忌避されるにせよ、その時代・その社会を象徴するものとして機能してきた。ならば、文学研究の蓄積を活かしつつ、それを展いていくフィールドとして、読書という行為とそれが共有される場をめぐる研究が改めて立ち上げられてもよいのではないか。

さしあたり想定される入口としては、旧制高等学校におけるR・S(リーディング・ソサイエティ)文化や、戦後の学校教育における「読書感想文」の問題、あるいは戦前の図書館運動が戦後に引き継がれ、出版界と図書館の協力によって新たに開始された「読書週間」などが挙げられよう。また、各種新聞における「読書欄(書評欄)」や書評専門紙誌の変容と影響力に関する考察なども可能かもしれない。あるいは、初等中等教育で用いられる教科書の中で「読書」という行為はどのように指導され、どのような書物が読むべきものとして推奨されてきたのか、その変遷をたどることで見えてくる問題があるかもしれない。有害図書/不健全図書の指定と回収をめぐる議論なども気になるところだ。

まだまだ茫漠とした構想でしかないが、「読書」という問題を一つの「制度」として捉え返し、その意義と問題点、可能性と限界など、多角的に捉える研究はできないだろうか。いまのところ、まったくのノープランだが、狭義の文学研究に閉じることなく、さまざまな領域に関心を持つ人々が「読書」をキーワードに議論する場を構築できないか、と夢想している。

 

……というわけで、鬱屈しがちなstay homeの日々の中で、勢いで書いてみた共同研究への呼びかけ、めいた独り言です。図書館が再び機能し、研究活動が本格的に再開可能になった頃、何か一緒に考えたいという方がおられたら、ぜひご連絡ください。

                 連絡先:yuji-ohr●faculty.chiba-u.jp (●→アットマーク)

 

念のため書き添えると、いまはまだ、本当にまったくのノープランで、何の準備もありません…。