days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

文学研究とドーナツの穴

大学の文学部は「文学」を学ぶ(だけの)場ではない。文学部とは「文」(=人文学)について学ぶ、すなわち「言葉」で語られ/記された知について学ぶ場である。


その意味で、わかりやすく単純化して言ってしまえば、文学部とは「リテラシー」を鍛える場である、とさしあたり言えるのかもしれない。


しかし、それは単に「書いてある」ことを正しく読みとる能力を鍛える、ということでもなければ、効率よく伝えたいことを伝える能力を鍛える、ということでもない。


その意味で、文学部で学ぶこととは、中等教育における「国語」の時間や「外国語(英語)」の時間とは異なる。しかし、それはどのように異なるのか? 


私自身は「文学」の研究者なので、以下、「文」=人文学について学ぶことの〈具体例〉として、「文学」を「研究」するとはどういうことか? ということについて、お話ししてみたい。


まず初めに考えてみてほしいのは、一つのたとえ話。


皆さん、「ドーナツ」というお菓子を頭に思い浮かべてほしい。それは、どのようなものなのか? 味、食感、形状、作り方、売っているお店、などなど……。



wikipedia「ドーナツ」の項より



形状としては、皆さんだいたい、このようなものを思い浮かべたのではないだろうか。


もっとも、辞書的な定義としては


「洋菓子の一種。小麦粉に砂糖、ベーキングパウダー、鶏卵、牛乳、バターなどを混ぜてこね、輪形やボール形に作って油で揚げたもの。」(『日本国語大辞典』)
「小麦粉に砂糖・卵・牛乳・ベーキングパウダーなどをまぜてこね、輪形などにして油で揚げた洋菓子。」(『大辞泉』)


…とあって、必ずしも輪形(真ん中に穴が空いている)とは限らない、という説明もあるわけだが、おおかたの人は、このようなリングを思い浮かべるのではないだろうか。


ここでちょっと考えてみてほしいのは、このリング形の真ん中にぽっかりとあいた穴のことである。


ドーナツがこのような形であるのは、もしかすると、油で揚げるときに火が通りやすいように、というような意味があるのかもしれないし、それとは違う理由があるのかもしれないが、そうした問題はさし当たり措く。


いま考えたいのは、人が「ドーナツ」いうものを思い浮かべるとき、そのイメージの中に、「穴」=空白が含み込まれている、ということについてである。


たとえば、小さい子に「ドーナツ買って〜!」とねだられた時、大人がドーナツを買ってやり、しかも食べやすいように、と予めバラバラにちぎって与えたとしたら、その子は「こんなの、ドーナツじゃない〜!!」と言いって泣いて怒るのではないか?


つまり、ドーナツというものは実は、食べる部分と、食べられない「穴」の部分とのセットで、はじめて「ドーナツ」として成立しているのではないだろうか?


少なくとも、子どもにとって目の前にある揚げ菓子が「ドーナツ」たり得るためには、食べられない(味もしないし、そもそも手につかむこともできない)この穴=空白が不可欠だ、ということである。


このような話のどこが「文学」(の研究)と関係するのか、そろそろ怪訝に思いはじめただろうか。


しかし、私がここでお話ししたいのは、まさしくこの「ドーナツ」の話こそ、「研究」対象としての「文学」そのものだ、ということである。


これはいったいどういういことか?


普通、人は「文学」作品を読んで、「面白かったー!」とか、「つまらなかったー!」とか、それぞれにいろいろな感想を持つ。それ自体は、真っ当な反応であり、何ら問題はない。


それはいわば、ドーナツを食べ、その「味」について、「おいしかったー」、「まずかったー」ということを言っているに過ぎないのではないか?


しかし、味の話だけをするのであれば、別にドーナツは「ドーナツ」である必要がない。少なくとも、あのようなリング状の形をしている必要はなくて、別にバラバラに引きちぎられたかけら(油で揚げた小麦粉と砂糖のかたまり)を口に含んでいればいい、ということになる。


しかし、人は「ドーナツ」が美味しかった、というとき、やはりあのリング状の形をしているお菓子を目で見て、手に取り、それを囓って口に含みながら、その一連の動作の中で、しみじみと「ああ、このドーナツ、美味しいなあ…」と呟くのではないか。


その意味では、他ならぬこの「ドーナツ」が美味しかった、と思うためには、実はあの形状の真ん中に開けられた「穴」は必要不可欠のものだ、ということになる。


しかし、繰り返すがこの「穴」それ自体は、手に取ることも口に含むこともできない。


ここで考えていただきたいのは、ここでの「ドーナツ」の話は、「文学」についての比喩たりうる、ということについてである。


実は、文学作品を読んで「面白い」「つまらない」という感想を持つとき、人はこのドーナツ」の「穴」に相当するものまでを手にした上で、そのような感想を持っているのではないか?


では、「文学」作品において、ドーナツの本体(手に取り、口に含むことができるもの)と「穴」(手に取ることも、口に含むこともできないもの)に対応するものとは何なのか?


ドーナツの本体に相当するのが、そこに書かれている(印刷されている)「本文」そのものであることは言うまでもないだろう。


では、「穴」に相当するのは何か?


それはさしあたり、そこに書かれていないもの(印刷されていないもの)である、ということになるだろう。


しかし、ここで注意が必要なのだが、私がお話ししたいのは、文学を「研究」することとは、書かれてもいないことを勝手に議論することだ……ということでは決してない。


再びドーナツの比喩に戻るなら、ドーナツの「穴」はただの空間ではあるけれど、それは決してドーナツと無関係にそこらへんに転がっているもの
ではない。


同様に、文学研究者が「文学」作品の「本文」に書いていないことまでをも考える、というとき、それは何も、「本文」を離れて好き勝手なことを放談する、ということを意味するわけではない。


そうではなく、「文学」作品を「研究」する、というのは、あくまで本体を食べるだけではなく、その本体を成立させている背景/条件の部分、すなわち「穴」の部分までをも視野に入れて考察する、ということに他ならない。


つまり、ここで言いたいことを一度まとめると、次のようになる。


「文学」作品を「研究」の水準で「読む」こととは、そこに何が書いてあるのか(どんな「味」がするのか)だけを問題とするなりわいではない。


「文学」作品を「研究」するとは、そこに書かれてあることを正確に読むだけではなく、むしろ、そこには何が書かれていないのか(どんな「穴」が開いているのか)、ということをも問うなりわいである。


「穴」の形状や大きさの測定に始まり、そのような「穴」をあけることの狙いやその効果について考え、その「穴」こそがドーナツ本体のあり方を構成している、ということを、さまざまな角度から検証する。


本体(=文学における「本文」)を吟味するだけではなく、その本体を支えている諸条件をも問い直すこと、これが「研究」の入り口である。


その意味で、大学で学ぶ文学「研究」とは、高校までの「国語」の時間で養われた力(=示された「本文」を正確に読みとる力)を基礎条件とはするが、それは出発点であって目的ではない。


しかし、なぜそんな面倒なことをするのか? おいしいものについて「おいしい!」と言うように、面白いものについて「面白い!」と言うだけでは不足なのか?


この問いに対する答えは、「言葉」とは人間にとってどういうものか、「言葉で表現する」とはどういうなりわいなのか、ということをめぐるかなり根源的な問題になるかもしれない。しかし、話は実は単純なことでもある。


つまり、こういうことだ。「言葉で何かを語る」ことは、必ず「何かを語らない」という判断とセットでなされる行為である。従って、両者を切断してしまっては、ものを「考える」ことにつながらないのである。


たとえば、「昨日の晩ご飯、何食べた?」と聞かれて「カレーライス」、と答えたとする。


無論、本当にカレーライスを食べたのならば、その言語表現にウソはない。


しかし、このように考えてみることもできる。そのカレーライスには福神漬けは添えられていなかったのか? そのとき水は飲まなかったのか?


どちらも食卓の上にあったのだとすれば、なぜ自分は「昨日の晩ご飯はカレーライスと福神漬けと水」だったと答えなかったのか?


あるいは、そのカレーのルーの中にはジャガイモとニンジンとタマネギと豚肉が入っていたのだとしてら、なぜ自分は「〈ジャガイモとニンジンとタマネギと豚肉が入ったカレー〉を白米にかけて食べた」、と丁寧に説明しなかったのか?


つまり、同じことを語るにもいろいろな〈語り方〉があったはずだし、その中の一つの〈語り方〉を選んだ、ということは、そのほかの〈語り方〉の可能性を消去して語ったということである。


つまり、改めて単純化して言うと、これは「言葉で何かを語る」という行為をしつつ、同時に他の「何かを語らない」という行為をした、ということでもある。


ドーナツの比喩で言えば、語った部分が口に含んだ本体、語らなかった部分(しかし、語った部分と不可分の部分)が「穴」ということになる。


つまり、文学を研究する、ということとは、このような〈語る/語らない〉のメカニズムそれ自体をも捉えていく、という態度を基本とするなりわいである。


そして、〈何が書かれ、何を書かれないのか〉ということを考えることは、そこに「何が」書かれているのか、だけではなく、「どのように」書かれているのか、を考える態度の確立へとつながる。


この視点を獲得できたとき初めて、人は「文学」(を含む「言葉で表現されたものすべて」)を「研究」するスタートラインに立つことができる。つまり、人間の言葉による知的営み=「文」(人文知)を学ぶ場に参入することができる。


「文学」の研究をはじめ、「文学部」で学ぶこのような思考の訓練は、たとえば《メディアリテラシーの根本的な鍛え直し》につながる、という意味では、実は極めて「実学」的なものでもある。


それは一言で言えば、簡単には人に騙されないようなリテラシーを持つことにつながるからである。


たとえば、商取引や外交などのフロントラインは、悪く言えば騙し合いの世界である。


あるいは、各種メディアが報じる情報は、政府によって予めスクリーニングされ、操作されているかもしれない。


生活のあちこちにあふれている広告表現は、悪質なプロパガンダかもしれない。


例えば、日本が戦争に加わることはない、とか、憲法を変えることについて恐れる必要はない、という政治家の言葉は本当なのか? そこでは、何か大事なことが語られていないのではないか?


様々な局面で、言葉はあふれている。ネットにアクセスすれば、膨大な文字の蓄積に対峙することになる。


そのとき、我々はそれらの言葉を正しく(書かれてある通り「正しく」)読めば、それで間違いないのか? 


そんなことを考えるための最も基礎的な訓練を行う場所が、文学部であり、文学研究の世界だ、と考えていただければと思う。


以上の話を踏まえて、最後に私の専門である日本の近現代文学研究に即して、〈実践編〉的な話をしておく。


高校一年の「国語」教科書にしばしば登場する現代小説に、川上弘美の「神様」という短篇がある。


「くまにさそわれて散歩に出る」という印象的な一文で始まるこの不思議な短編小説は、近所に引っ越してきた「くま」に誘われた「わたし」が、お弁当を持って二人連れだって近所の川原へと散歩に行って帰ってきた、という一日の出来事を描いたものだ。


例えば、高校の授業では、「くま」とはどのようなイメージをもった存在か、本文の記述を踏まえて読み取ろう、などといったことを考える。


そこで、生徒は本文全体を隈なく読み返し、いくつかの記述を丹念に拾い上げることを求められる。それは例えば次のようなものだろう。


「近ごろの引っ越しには珍しく、引っ越しそばを同じ階の住人に振る舞い、はがきを十枚ずつ渡して回っていた。」


(引用者注、「わたし」から名前を訊かれた際の返答として)「今のところ名はありませんし、僕しかくまがいないのなら、今後も名乗る必要がないわけですね。呼び掛けの言葉としては、貴方(あなた)が好きですが、ええ、漢字の貴方です、口に出すときに、平仮名ではんは漢字を思い浮かべてくださればいいんですが、まあ、どうぞご自由になんとでもお呼びください。」


(川原での食事の後に)[…]くまは袋から大きいタオルを取り出し、わたしに手渡した。/「昼寝をするときにお使いください。[…]もしよかったらその前に子守歌を歌って差し上げましょうか。」


こうした記述(=本文として書かれていること)から読み取れるのは、「くま」=ちょっと古風なくらいに、人に対する気遣いをすることができる、とてもやさしい存在……、ということになるだろうか。


しかし、先ほどお話ししたような考え方―ーつまり、この小説の本文には何が「書かれていない」のか、ということをここで実践してみたらどうなるか?


この小説は、「わたし」の側の一人称語り、という形式で成立している。従って、いま拾い取った「くま」に関する描写は、基本的にこの「わたし」というフィルターを介したものだった、ということになる。そして、その描写はそれなりに細かい。


さて、では翻って考えてみるに、この「わたし」は自分自身のことについては、どれほど具体的に語っていただろうか?


たとえば、この「わたし」は何号室に住んでいるのか?


「わたしは」冒頭近くで、「三つ隣の305号室」に「くま」が引っ越してきた、とは記している。しかし、当の自分自身がどちら側の「三つ隣」なのか(302号室なのか、308号室なのか)ということについては、明確に示さない。


あるいは、次のように問うてみることもできる。「くま」の呼称を問題にした「わたし」は、自分自身の名前を示していただろうか? と。


たしかに一人称の文体なので、「わたし」は自分の名前をわざわざ示す必要はないかもしれない。


しかし、実は「くま」は 、最初に引っ越しの挨拶に来たとき、「わたし」の部屋の「表札」を見て、以前に大変世話になった人と同じ姓だ、ということを話題にしていたりしたはずである。


しかし、「わたし」はそれでも自分の姓そのものを本文に書き込むことをしない。


極めつけは、小説の末尾近くの内容だろう。


「わたし」は自分の部屋の前まで送ってくれた「くま」と別れ、「眠る前に少し日記を書いた」という。


…ということは、この「神様」の本文に相当するものは、このとき「わたし」が書いた日記そのものではない。


もしかすると、この「日記」には、「くま」と過ごした一日についての、より詳細な記録が書かれたのかもしれない。「くま」に関する率直な思いが書き付けられているのかもしれない。


しかし、「神様」という小説の本文それ自体には、「悪くない一日だった」という、何とも微妙な表現しか書かれていない。


いったい「わたし」は何を「書かなかった」のか? その判断は何に基づくのか? このような判断を下す「わたし」はいったい何者で、「くま」のことを本当のところ、この一日のことをどのように思っているのか?


こうした、書かれなかった何か=ドーナツの「穴」の存在に気づき、本体と「穴」との力関係を測定しようと試みるとき、はじめて文学「研究」はスタートする。


最後に繰り返しておくと、こうした発想は日常生活のあらゆる場面で「役に立つ」。


もしかすると、ちょっとひねくれた人、という印象を周囲に与えるかもしれないが、それぐらいの構えがないと、人は簡単に騙されてしまうかもしれないし、気が付くと取り返しの付かない間違いを犯しているかもしれない。


「文学部」での学問は、そういった間違いを予防する知見を学び取る場である。


*先日行った、とある高校での出張講義の内容のうち、大学・学部の説明に関する部分を省略して、後半部分でお話しした内容を再構成したもの(当日、時間の関係上、省略した部分についても加筆した)。