days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

『戯作者の命脈 坂口安吾の文学精神』「あとがき」より

坂口安吾が一九四一年に記した「ラムネ氏のこと」(『都新聞』1941年11月20~22日)というエッセイがある。新聞の片隅に三日間にわたってひっそりと掲載された、ごく短い文章であるが、一九七〇年代後年以降、高校国語の教材として教科書に採録され続けてきたこともあり、安吾の文章としては今日、広く読まれているもののひとつである。

 

全体は、「上」「中」「下」の三つのパートからなる。

 

「上」は、安吾三好達治の世話で小田原に仮寓していたころ、小林秀雄島木健作とが訪問してきて、三好の家で四人が歓談したときの挿話である。三好がラムネ瓶の蓋になっているガラス玉を発明したのは「ラムネー氏」という人物だと力説したが、安吾が後日調べてみると、それは間違いだった。しかし、どこの誰だかわからなくとも、とにかく発明者がいたことは確かであり、すべての事象の背後には歴史があるのだというテーゼが、ここから導出される。例えば、毒を避けてフグを食す文化の背後には、毒の犠牲となりつつ、フグ料理を完成させる未来を子孫に託した者たち、すなわち無数の「ラムネ氏」たちの歴史があったはずだ、というように。

 

「中」は、場面変わって信州の奈良原鉱泉に逗留した折の挿話である。宿で連日、素性の明らかでない茸を食べさせられ困惑していると、部落で茸とりの名人として知られる老爺が茸にあたって死んでしまう。しかし、それでも人々は躊躇なく茸を食べ続けていた。このような、笑うに笑えない話が紹介された上で、この村には「ラムネ氏」=先駆者の歴史がなかった、とされる。

 

「下」では、さらに話題が変わる。三百年以上前、布教のために日本へやってきた切支丹たちは、キリスト教の説く「アモール(ラヴ)」に相当する語が日本語になく、「愛」といえば「御法度」だった不義密通を意味してしまうために難儀したが、苦心して「御大切」という訳語を編み出した。このような挿話が紹介された後、しかし「愛」を単に邪なものとして退けるのではなく、それを果敢に文学の中で描こうとした戯作者たちがいたということが強調される。そして、彼らもまた、「物のありかたを変へてきた」という意味で「ラムネ氏」である、と結論づけられることになる。

 

このエッセイが巧みなのは、ラムネ玉の発明者に関する三好達治の力説が実は間違いだった、という最初の挿話のオチが、エッセイ全編を貫く論理を明確に示すものになっているからである。

 

目の前にラムネ玉という事物は確かに存在している。そして、存在している以上、どこかのだれかが(あるいは、「だれか」たちが)、それを開発したという歴史がある。それがもはや、どこのだれだかわからなくなっているとしても、そこには確実にひとつの命脈があるのだ。多くの歴史資料にあたり、あるいは歴史ゆかりの土地を実際に踏査しながら歴史小説ルポルタージュをくり返し書いた坂口安吾という小説家が、「歴史」というものをどのように捉えていたのか、と考える上で、このエッセイが示唆するところは興味深い。安吾の書く「歴史」は、まさに「ラムネ氏」の足跡をたどるような試みなのだと言えよう。

 

一方、別のエッセイで安吾は、作家である自らが書きつけ、書き飛ばしていった文章について、次のように記している。「芸術は長し、人生は短しと言ふ。なるほど人間は死ぬ。然し作品は残る。この時間の長短は然し人生と芸術との価値をはかる物差とはならないものだ」(「教祖の文学」、『新潮』1947年6月)。すなわち、文学作品とは作家が身過ぎ世過ぎのために売った「商品」に過ぎないのであり、「余の作品は五十年後に理解せられるであらう」などという「アンリベイル先生」=スタンダールの言葉が退けられることにもなる。

 

この文章は、「骨董」を鑑定するように芸術を論ずる、戦後における評論家・小林秀雄の態度を批判する文脈で書かれたものである。とはいえ、文学研究を行う者からしてみれば、「作家にとつて大切なのは言ふまでもなく自分の一生であり人生であつて、作品ではなかつた」、などという断定的な言葉には、とまどわざるを得ない。文学作品を読み、それを論ずることは無意味だということになってしまいかねないからである。安吾は、文学とは「歴史」と無縁なものだと言いたかったのか?

 

しかし、ここで改めて「ラムネ氏のこと」における安吾の主張を突き合わせてみたら、どうだろう。近世の戯作者たちこそは、身過ぎ世過ぎのために作品を「商品」として売りながら、同時に「御法度」に対して果敢に挑戦した先駆者だったのではなかったか。

 

ここで留意しておくべきなのは、「ラムネ氏のこと」において安吾が、戯作者たちの固有名を一つも挙げていなかったことである。その意味で、戯作者たちのなりわいはここで、フグ食文化の開拓に貢献しつつ自らは毒に当たって死んでいった無数の、そして無名の人々と等価なものと見なされていることになるだろう。

 

安吾は「常に自ら戯作者を以て任じてい」た(「戯作者文学論」、『近代文学』1947年1月)。そんな彼にとっては、自らが書く文学作品もまた、無数の/無名の人々が残していった文章と等価なものとして残ればよいのであり、特別な名匠が残した価値ある「骨董」のように扱われてはかなわない、ということになるのだろう。このように考えるなら、二つのエッセイの内容は矛盾することなく連続するものであるようにも見えてくる。

 

ここでさらに、安吾が自伝小説「暗い青春」(『潮流』1947年6月)の中で、次のように記していたことを想起しておいてもよい。語学学校アテネ・フランセに通い、そこで出会った友人たちと交流する中で本格的に文学の道を歩み始めた頃のことを回想した文章である。

 

我々の一生は短いものだ。我々の過去には長い歴史があつたが、我々の未来にはその過去よりも更に長い時間がある。我々の短い一代に於て、無限の未来に絶対の制度を押しつけるなどとは、無限なる時間に対し、無限なる進化に対して冒瀆ではないか。あらゆる時代がその各々の最善をつくし、自らの生を尊び、バトンを渡せば、足りる。

 

これは、若き日の安吾が時代の趨勢であったマルクス主義に対してなぜ関心を持たなかったのか、その理由を語る文脈の中で記された言葉である。マルクス主義という一つの真理、一つの正しさによって世界を捉えようとするのは「冒瀆」だという表現は、いささか強すぎるようにも見える。しかし、安吾が捉える「歴史」とはマルクス主義という真理/正しさによって構造化され、メタレヴェルから語られるべきものではないのだ。それは、無数の/無名の「ラムネ氏」たちが「各々の最善をつくし、自らの生を尊び、バトンを渡」す、その反復の中にこそある。

 

そうだとすれば、坂口安吾の文学的営為を受け止めるわれわれもまた、一人の「ラムネ氏」としての安吾から「バトン」を渡されたその感触をそのまま受け止めればよいのだし、またその感触を説明することに「最善をつくし」、次なる読者に向けてさらに「バトンを渡せば、足りる」のではなかろうか。

 

「ラムネ氏のこと」の末尾近くで、安吾は次のように記している。かつて、時の権力が提示する正義に従わず、「ともかく人間の立場から不当な公式に反抗を試みた文学」があった。それを書いたのが「戯作者」である。もちろん「戯作者のすべてがそのやうな人ではないが、小数(※原文ママの戯作者にそのやうな人もあつた」。すでに確認したように、それが具体的に誰を指すのか、安吾は特定の戯作者の名を挙げることはしない。それをすれば、たちまちその戯作者の作品が「骨董」になってしまいかねないからだろう。

 

果たして、本書で坂口安吾という小説家とその作品を論じる手つきが、「骨董」を賞翫するそれになっていなかったかどうか、少し心許ないところはある。しかし、行論の上で特定の作品に焦点を絞ることはあったとしても、それを作家の名の下に無条件に価値付け、称揚するようなことはしていないはずだ。むしろ、本書においてしばしば行ったのは、坂口安吾およびその作品を、同時代を生きた他者の存在およびそれらの人々が残した言葉と等価なものとして横並びに置き、検証していくというやり方だった。そのため、叙述はときに右往左往し、坂口安吾という作家から離れて旋回する箇所も生じている。しかし、あえてそのような書き方をとることで、狭義の「小説家」の枠組みに収まることなく多くのテクストを書き残した坂口安吾の軌跡を、一人の「ラムネ氏」のそれとして記すことができたのではないかと考えている。

 

『戯作者の命脈 坂口安吾の文学精神』(2022年5月、春風社)「あとがき」より

制度としての「読書」をめぐって―共同研究の構想/夢想

学校、軍隊、企業など、ある集団に属する人間にある種の教養や認識、思考の枠組みといったものを「教育」として施そうとするとき、教育者は被教育者に対して、しばしば「読書」という行為を求める。そこでは読むべき書物がリスト化され、それらを読み進めることが価値ある行為であると見なされる。つまり、「教育」の場における「読書」とは、被教育者の「自発的」な行為によって、教育者の求めるディシプリンを内面化する装置に他ならない。

 一方で、ある種の「読書」は忌避すべき行為として戒められることもある。読むべきではない/読んではならない書物がリストアップされ、そのような書物を読む行為が反社会的あるいは反倫理的行為として指弾されることもある。そのような書物を流通させることや所持することを規制し、厳しい処罰を与える法制度が整備されることもある。そのとき「読書」は権力に対するプロテストとしての意味を帯びるだろう。

 従来、文学研究とはまず何より、文学作品の中に何が書かれ、それがどのように読まれたのか/読み直しうるのか、ということを中心に展開されてきたところがある。文学作品の意味/価値を論じるとき、その根拠を作者の側に求める(作家論)にせよ、逆に読者の側に求める(受容論)にせよ、そこではまず何より、個別その作品の意味/価値がどのように生成し、またその意味/価値に関する解釈がいかに変容するのか、あるいはしないのか、ということをめぐる議論の精緻化が目指されてきた。言い換えればそれは一篇のテクスト、一冊の書物をめぐる議論の蓄積である。

 しかし、言うまでもなく書物は他の書物と共に書棚に並ぶ。書店で、図書館で、あるいは教育者が作った読書リストの中で、一冊の書物は様々な別の書物と束ねられ、一定のコンテクストの中に組み込まれる。そして、そのような束としての書物(群)は、それ自体が一定のメッセージを発信する装置となる。このような装置が発動させる〈制度としての「読書」〉と、一篇のテクスト、一冊の書物をめぐる議論を積み重ねてきた文学研究とをどのように架橋させることができるだろうか。

学校や図書館といった場から発信される望ましい読書、政治イデオロギーや社会規範(暴力・性など)の観点から法的にあるいは行政によって禁じられる忌むべき読書など、時代と社会の中で、行為としての読書はさまざまな形で現象し、変容してきた。そして、こうした「読書」という場において、しばしば文学は、強く推奨されるにせよ忌避されるにせよ、その時代・その社会を象徴するものとして機能してきた。ならば、文学研究の蓄積を活かしつつ、それを展いていくフィールドとして、読書という行為とそれが共有される場をめぐる研究が改めて立ち上げられてもよいのではないか。

さしあたり想定される入口としては、旧制高等学校におけるR・S(リーディング・ソサイエティ)文化や、戦後の学校教育における「読書感想文」の問題、あるいは戦前の図書館運動が戦後に引き継がれ、出版界と図書館の協力によって新たに開始された「読書週間」などが挙げられよう。また、各種新聞における「読書欄(書評欄)」や書評専門紙誌の変容と影響力に関する考察なども可能かもしれない。あるいは、初等中等教育で用いられる教科書の中で「読書」という行為はどのように指導され、どのような書物が読むべきものとして推奨されてきたのか、その変遷をたどることで見えてくる問題があるかもしれない。有害図書/不健全図書の指定と回収をめぐる議論なども気になるところだ。

まだまだ茫漠とした構想でしかないが、「読書」という問題を一つの「制度」として捉え返し、その意義と問題点、可能性と限界など、多角的に捉える研究はできないだろうか。いまのところ、まったくのノープランだが、狭義の文学研究に閉じることなく、さまざまな領域に関心を持つ人々が「読書」をキーワードに議論する場を構築できないか、と夢想している。

 

……というわけで、鬱屈しがちなstay homeの日々の中で、勢いで書いてみた共同研究への呼びかけ、めいた独り言です。図書館が再び機能し、研究活動が本格的に再開可能になった頃、何か一緒に考えたいという方がおられたら、ぜひご連絡ください。

                 連絡先:yuji-ohr●faculty.chiba-u.jp (●→アットマーク)

 

念のため書き添えると、いまはまだ、本当にまったくのノープランで、何の準備もありません…。

坂口安吾「日本文化私観」の注釈的読解について

ちょっと必要があって坂口安吾「日本文化私観」の本文を眺めていたのだけれど、この文章、改めて読むと本当にハイコンテクストで、これに真面目に注釈をつけようとしたらかなり大変なことになる。かつて高校国語「現代文」の教科書に入っていたりしたけれど、これを教材として扱うのは意外と難しい。論理展開の妙を読むという意味では面白い教材かもしれないが、書かれている言葉の一つ一つをきちんと読み取るのは、かなり難しいはず。

 

一例。「僕がまだ学生時代の話であるが、アテネ・フランセでロベール先生の歓迎会があり、テーブルには名札が置かれ席が定まっていて、どういうわけだか僕だけ外国人の間にはさまれ、真正面はコット先生であった。」

 

アテネ・フランセの校友会報『あてね』創刊号(1929年12月)の「消息」欄に「ロベール氏 本年九月よりアテネ・フランセに再び教鞭を取られ、目下専攻科、高等科、初等科、アカデミー科を受持たる」とある。しかし、ロベールの歓迎会についての記述はない。

 

同欄によれば、ほぼ同時期に吉江喬松も着任していて、こちらの歓迎会に相当する校友会「第二回晩餐会」は同年10月25日に開催されている。しかし、安吾の文章は「テーブルスピーチが始った。コット先生が立上った。と、先生の声は沈痛なもので、突然、クレマンソーの追悼演説を始めたのである」と続く。

 

『あてね』の記録によると、この「第二回晩餐会」(10月25日)の出席者リストの中に安吾の名前はある。しかし、クレマンソーが死去するのは1929年11月24日。従って、吉江の着任パーティとは別の機会に(1ヶ月後?)同様のパーティがあったのかもしれないが、その記録は残っていない。

 

こんな感じで、完璧な注釈を施すのは難しい部分も少なくないが、それでもある程度は調べられるように思う。図書館等が機能するようになったら、時間をみつけて注釈に取り組んでみたい。もとより、一人でやるには限界もあるだろうから、小規模のメンバーによる勉強会形式で作業するのがよいのかもしれない。

 

(※Twitterへの投稿2020.3.29を再編集)

恩師の訃報

www.nikkei.com

恩師である十川信介先生が亡くなった。10日ほど前に亡くなっていたのだという知らせを受け取ってから数日が経ったが、いまだ実感がわかない。

そもそも、不肖の弟子たる自分は、こちらからまめに連絡をとっていたわけでもないし、そのような親しいお付き合いをさせてくれるような方でもなかった。 

しかし、それでも自分の中にぽっかりと空いた穴はけっこう大きいような気もする。

 振り返ってみて「楽しい」思い出がたくさんあるわけではない。苦虫をかみつぶしたような先生の顔が思い出されるばかりだ。けれど、いまの自分が曲がりなりにも研究者としてあることは、先生の存在なしには考えられない。

 以下、自分が先生から受け取った(と思っている)ことについて、思いつくままに記しておこうと思う。

 まず何より、学者(大学教員)なんて「偉い」ものでもなんでもないのだ、ということ。これは繰り返しおっしゃっていたように思う。

 とてつもなく「怖い」先生ではあったけれど(思い出すエピソードはいくつもあるけれど、いまは記さない)、偉そうな態度は決してとらない方だった。厳しい言葉の後には必ず、「まあ、頑張りなさい」という言葉が付いていた。

 最後にお目にかかったとき(いま思えば、最後のご著書になった漱石の評伝を執筆されていた時期にあたる)にも、漱石について様々に語って下さったあとに、とにかく考え続け、そしてそのことを書きなさい、とおっしゃっていた。

 研究者であろうとなかろうと、生きることは考えることであり、考えたことはきちんと書き付けなければいけない、というようなお話だったように思う。

 学者だから書くのではないし、仕事だから書くのでもない。しかし、書くことにはそれ自体の意味があるのだし、逆に言えば書くだけの価値のあることを常に考えなさい、ということだったのだと思う。

 学会の場で最後に先生に会ったのは、2010年春の日本近代文学会だった。

 いまの勤務先に着任して間もない時期に研究発表をすることになったのだが、その発表をフロアで聴いて下さった。どんな顔をして聴いてくださったのか、覚えていない(恐ろしくて直視できなかったのだろうと思う)。

 そもそも、着任初年度のバタバタで余裕を持って準備をできなかったこともあって、内容にまとまりがなく、割り当てられた時間を超過してしまうような発表だった。

 懇親会で先生の姿を見つけ、恐る恐る声をかけてみると、渋い顔をしながら「話が長すぎるよ」と一言だけ。

 内容について「ダメだった」「つまらなかった」と言われなかったのは救いと言うべきなのか、箸にも棒にもかからないという意味だったのか、よくわからない。

 それこそ、学生の頃には授業で発表しても、返ってくるのはいつも「それで?」「よくわからんな」というような辛辣なコメントだけだった。「まあ普通だな」というような一言が返ってくるときは、相対的に褒め言葉なのだろうと勝手に受け止めていた。

 しかし、そういう突き放した一言の後には、いつも必ず「まあ、頑張りなさい」の一言が付いていた。2010年の学会のときも同じだったと思う。

 「大事なことは、短く伝わりやすい言葉で」、というのが、先生から受け取った教えの一つなのだろうと、今は思う。

 こんなことを書いていて思い出したことを一つ、ついでに記しておこうと思う。

 先生が学習院大学を退任した直後に刊行した『近代日本文学案内』(岩波文庫別冊19、2008年)を、私のような者にも送って下さった。学内学会誌に掲載する先生の略歴をまとめた仕事へのお礼も込めて、ということだった。

 学生の頃に受けた文学史の講義を思い出しながら読み進めていると、「あ!」と思う箇所があった(146頁から149頁あたり)。

  

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  そこにまとめられていた内容は、私がかつて先生のご指導のもとで悪戦苦闘しながら書いた修士論文を、その後どうにかまとめ直し、初めて学会誌というものに投稿した論文の内容を踏まえた記述だった。

 そういえば、いつだったか「お前の書いた論文の内容に言及しといたぞ」というようなことをおっしゃっていたけれど、あれはこのことだったのか、と何年も経ってから気づかされたわけである。

 悪戦苦闘した修士論文は、なかなかまとまらず締切ギリギリまで書き続けた結果、いたずらに長く非常に読みにくい代物だったと思う。

 口頭試問の際には先生に「気は済んだか? 書きたいことは全部書いたのか?」と訊かれ、「はい」と答えたら、「論文を書くというのはそういうことじゃない!」と叱られた記憶がある。

 そして、博士後期課程に進学した後、その冗長な修士論文をリライトして投稿したのが、『日本近代文学』に初めて掲載された論文だった。

 その内容が、文庫本にして4頁くらいで的確にまとめられていた。「お前の言いたいことは、要するにこういうことだろう? ならば、もっと平易に短く書きなさい」と叱られているようだった。

 「大事なことは、短く伝わりやすい言葉で」、これからも肝に銘じておこうと思う。

 もっとも、こうしてつらつらと書いてきたこの文章自体が、すでに何とも冗漫な代物でしかないだろう。でも、これがいまの精一杯の言葉ですと言ったら、先生は口を歪めて渋い顔をしながら許してくれるだろうか。

 

本当にありがとうございました。きちんとお礼を伝えきれていないと思うので、こんな文章を書いてみました。

 

 

父の遺品をかたづけながら

時間を見つけては実家に足を運び、少しずつ父の遺品の整理をしている。その作業の中で出てきた、祖父関係の遺品。祖父が亡くなった後に父がその遺品を整理したときに手元に残したものなのだが、それがさらに孫である私のところに届くというのは、少し不思議な感覚がする。しかも、それが小学生だった私が祖父に宛てて送った年賀状だったりするのだから、なんだかタイムカプセルを開けたような気分になる。


それにしても、小学生の私は低学年から高学年まで一貫して字が汚い(今も汚いけれど)。これを見て、自分の息子に「もっと字をきれいに書きなさい」とは言えなくなってしまった。しかし、この年賀状以上に感慨深かったのは、祖父が書いたという「私の生い立ち」という小文。原稿用紙3枚の裏表にわたって、自分の生涯について記されている。茨城県霞ヶ浦近くの農家出身だったという祖父の生涯については、大まかなことは聞いたことがあるけれど、本人から直接聞いたことはないので、今回初めて知ったことも少なくない。


利根川霞ヶ浦、北浦に囲まれた地域に育った祖父は、どこに行くにも舟を使わなければならない(当然、鉄道などない)出身地は「陸の孤島」であったと記している。「水に囲まれ物を造っても売ることがむつかしい」と考えた祖父は二十五歳で百姓をやめる決意をし、東京に出る。ただし、農家の人手不足を少しでも解消するためにと考え、周囲の勧めに応じて、既に祖母と結婚していた祖父は、結婚したばかりの妻を実家に残して、東京に単身赴任していたそうである。勤め先は「東京中島製作所」だと記されている(このことは今回初めて知った)。


やがて、見かねた曾祖父が若い夫婦が別居していては「夫婦の情がなくなる」から、と手紙を書き送り、祖父の弟が祖母とその子ども(私の伯母)を東京に送り届けたのだという。食料その他を実家から送ってもらいながら、田舎の大家族から離れ、親子三人だけで「ままごとの様」な生活(…と祖母が語ったのだという)をはじめた頃、「大東亜戦」が始まる。「兵隊に行く」ことになった祖父は、中島製作所の工場内で「隊長」となって東京に残り、祖母と伯母、そしてその頃には生まれていた父の三人は、茨城に疎開。その後の、戦争中のことは特に記されていない(そう言えば、祖父からは戦争中の話を聞いたことはほとんどなかった)。


やがて戦争が終わり、妻子との生活を再開した祖父だが、しばらく離れて暮らしていた子どもたち(伯母、父)が「私を他人と思いこんで」「私の許に来な」かった、と祖父は嘆き、続けて次のように記している。


「自分勝手に別々になったのではない 国がそうしたのだ なんて不幸なことだ」


戦争に関して、初めて祖父の生の声を聞いた気がする。もっといろんなことを聞いておくべきだった、と反省させられる。


この後、戦後の苦労について綴られているが、基本的には「女房」は「よく我慢して下さった」という感謝の言葉が続く。そして、その「女房」が自分を残して先立ってしまったことについての悲しみ。そう、この文章が綴られているのは、祖母が亡くなって数ヶ月足らずの月命日なのである。祖父としては、祖母を亡くした「無念」の思いを抱えながら、「出来るだけ思い出を書くことにする」という意味で、この手記を書き起こしたらしい。


そして、一度文章を結んだ後、まだ書き足りないと思ったのか、原稿用紙の裏に追記がある。その最後にあるのは、次のような文章だった。


いづれ私もお前さんの所に行く その時は色々と語ります故に次の世で余り早くお迎には来てはなりません」


こういったあたりには、私のよく知る祖父の人柄があらわれている気がして、少し笑ってしまった。そして、最後にもう一度「唯感謝している」と記されて手記は終わる。


この文章を祖父が書いたのは、私が高校一年生の頃のはず。一緒に生活していた祖父がこんな思いを書き綴っていたとは、まったく知らなかった。そして、祖父のこんな手記を父がずっと手元に残し続けていたことも知らなかった。


戦後の生活苦の中でしばしば祖母に辛く当たったらしい祖父の姿を目にして育った父は、ずっと祖父との折り合いがよくはなかった。派手な喧嘩こそしないものの、面と向かって話すことを避け、いつも間に人を介したコミュニケーションしかしていなかった記憶がある。その父は、祖父のこのような文章をどんな思いで読んだのか。思えば私自身、こんな話を父とする機会はなかった。


何かを話そうと思うとき、何を話したいのか気づいたとき、その相手はもういない。ただ、文字が書き残されることで、話すべきだった「何か」の欠片は残る。文字を書くとはどういうことなのか、ということを改めて感じながら、この夏は遺品整理を続けることになりそうである。


(※FBに投稿した文章を転載)

いわゆる学会の「印象記」というものについて

学会の刊行物に掲載される、研究報告に関する印象記のあり方についての日比さんの問題提起。

学会向け批評記事のウェブ先行公開は、愚挙なのか - 日比嘉高研究室


依頼を受けて書いた文章を(バージョン違いとはいえ)依頼元より先に公開しちゃまずかろう、というのはまあ当たり前として、こういう文章が閉ざされた場で一方通行的に言いっ放し、書きっぱなしになっているのはどうなのか、という主張はよくわかる(実際、たまにずいぶんひどい文章もあったりするし)。


それに、学会報告の要旨と印象記がセットになってネット上で公開されていれば、学会に足を運んでみようかな? とか、入会しようかな? などと考えている人に向けては、よい宣伝材料になるだろう(実際、私が関わっている坂口安吾研究会という小さな研究会では、ずいぶん昔からネット公開している。)

坂口安吾研究会ウェブサイト  研究会のこれまでの活動


ネット上で大々的に公開され、会員外の人の目にも触れる、となると、印象記そのものも、より広く批評・批判にさらされることになるのだから、発表者も印象記の書き手も、それ相応の緊張感を味わうことになる(安吾研で研究発表や印象記執筆の依頼をするとき、こういう緊張感についての感想を伝えられることは少なからずある)。基本的にこれはよいことだと思う。


ただ、一つひっかかるのは、果たしてこういうものは速報性が高ければ高いほどよい、と言えるのかどうかということ。


確かに前年秋に行われた学会の印象記が翌年4月になってから公刊される、といようなことだと、年度も変わってしまうし少し時季外れな感じがしなくもない。


しかし、一方であまりにも早くレビューがネット上で公開されるというのも、場合によっては感情的なやりとりを誘発して「炎上」案件とかになりそうで、ちょっと気がかりではある。


近年、「○○論争」のようなものがアカデミックな場で成り立ちにくいのは、やりとりの速度の速いインターネットを介すると、結局ただの「炎上」にしかならず、議論らしい議論など成立しないことがわかっているからではなかろうか(だから、運営・編集サイドでは近年、積極的に「論争」的な場を作ろうという発想になりにくいのだと思う)。


一方、(これはよいことだが)学会の大会・例会の規模が近年、拡大傾向にあって多くの研究発表が行われるようになってきていることを思えば、もはや従来の(紙媒体の)形式での「印象記」という枠組みの中には、情報がそもそも物量的に収まらなくなってきているのは事実かもしれない。


いずれは必然的に、学会の会員にはメールマガジン形式で先に配信し、その後ウェブサイトで一般公開、といったような形式に移行していくのではないだろうか。そうなれば印刷・郵送といった段取りがなくなり、情報公開のスピードも程よく上がることだろう(繰り返しになるが、安吾研のような(お金も人手もない)小さな研究会では、もうずいぶん前からやっていることだったりする)。


まあ、いまは過渡期なのかな、と思ったりします。

最近の仕事(2017年2月、3月)

方法論としての「文学のふるさと」―坂口安吾における「芥川龍之介」―

(「近代文学合同研究会論集」第13号、2017・2)

坂口安吾文学のふるさと」(1941)における「芥川龍之介」の語られ方に改めて注目し、文学表現上の方法論としてこのエッセイを読み直す試み。ここで提示された方法論がいかに実践されたのか、あるいはされ得なかったのか、ということの事例として、小説「紫大納言」および「イノチガケ」にも言及しました。


文字を「書く」ことの「不自然」さについて―多和田葉子『雪の練習生』論―
(「人文研究」第46号、2017・3)

三代にわたる熊の自伝という奇妙な設定で書かれた多和田葉子の小説『雪の練習生』(2011)について、人と動物の境界と言語、という観点から論じたもの。一年前に書いた「動物・ことば・時間―〈動物と人間の文学誌〉のための覚え書き」(「千葉大学人文社会科学研究」32、2016・3)という論文の続編に当たるものです。


*前者は2015年度の近代文学合同研究会シンポジウムでの報告内容をまとめたもの、後者は2015年度に千葉大で行った講義内容の一部をまとめなおしたものです。