days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

「必要なの?」という声にどう応えるか

http://www.asahi.com/articles/ASH685CJLH68UTIL01W.html


http://www.asahi.com/articles/ASH653VNRH65UPQJ001.html


こうした国立大学の人文社会系、教員養成系への改廃要請の話、これからどうすべきなのか、というのはかなりの難問だろうと思っている。


学問の自由を守れ、というのは一番の正論だが、これは学者の皆さんのフェイスブック談義=床屋政談の外側にはなかなか届きそうにない。そもそも、そういうアカデミックなものへの拒絶反応に端を発するのが現状なのだろうから。


そもそも、本当は「人文社会系、教員養成系」といったユルい括られ方からして、本当はまずい状況であると考えるべきだろうが、ここで人文系/社会系/教員養成系の差異とそれぞれの有用性を説いても効果的ではない。


たぶん、もともとどこの大学でもそれほど仲良く連携していたわけでもない各学部がそれぞれの有用性を説いたら、じゃあ、どこが一番要らないのだ、という順位づけに加担することにしかならない。


といって、文系の教養は重要なんだ、と団結して言い募っても、じゃあ、思い切ってリストラして、一つの新学部(教養部の復活?)にまとまってくださいよ、ということになる(そして、授業は英語でお願い、というおまけも付いてきそうだ)。


教員が教員だけで(大学の中、アカデミズムの中だけで)団結して声をあげても、状況が好転する見込みは薄い。


しかし、改めて考えてみると、いまの「改革」要請は、つまるところ人材育成への要請なのであって、学問や研究の圧迫が第一義ではない。


要は「使える人材」を育成してくれ(それにしても最悪な表現だ。美味しい肉になる家畜を出荷してくれ、みたいなこととしか思えない)、ということがいま求められていることの中心なのだとしたら、返すべき答えは、「これまでだって、ちゃんと立派な卒業生を送り出してきたではないか!」(もちろん、彼ら彼女らは家畜でも社畜でもないぞ!)ということではないのか。


アカデミズムに対して妙なルサンチマン(?)を募らせている政治家や官僚にばかり声をあげさせないために、大学関係者がいまなすべきなのは、かつて大学で有益な時間を過ごし、その後社会で活躍している卒業生たちと連携する、ということではないだろうか。


本当は、社会で活躍している卒業生が出身大学に寄付をし、その出資で学んだ学生が、卒業後に寄付する側に回る、というようなサイクルで大学が経済的に一定程度の自律性を確保できればいいわけだけれど、それが難しい国立大学の場合、せめて、卒業生の皆さんから《「ことば」の寄付》を募ったらよいと思う。


国立大学文系学部で学んだ時間があるから今があるのだ、ということを、なるべく多くの卒業生の皆さんから寄せてもらう、というのも、大学「改革」の波に対する地道ではあるが有効なカウンターなのではないか。


だいたい、どこでもそうであろうと思うが、地方国立大の就職率、卒業生の地域への貢献度は、今でも決して低くないのではないか? この辺りも、今後はもっと可視化していかなくてはならないのかもしれない。


それにしても心配なのは、いまの大学改革が入試改革と並行して進行しようとしていること。


学力試験を軽視し、それ以外の要素での選別の方向に舵を切れば、当然、子ども時代にいろいろな経験をさせてもらえる富裕層出身者が圧倒的に有利になり、個人の努力による階層上昇というルートのない、階層固定型の社会になる。


文系の教養をも大学で学んで社会をリードする立場に回るのは、富裕層出身者だけ、学ぶ場は高い学費によって優れたスタッフを取り揃えたごく一部の有名私立大だけにある、という状況。


そして、こうした富裕層出身の一部のエリート層が、職業訓練学校を出た「使える人材」を効率よく使う社会の実現、というのが、大学「改革」論者の見通しなのかもしれない。


しかし、そのとき必ず出てくるのは、やはり「最近の若いモンは『使えない』なー」という声なのではなかろうか?


だいたい、どの業種にも対応できる「スキル」を学校で一律に教えることなどできないし、そもそも必要とされる「スキル」の質など、あっという間に変わっていくはずではないか。


教育について、言いたいことばかり言う「産業界」の皆さんは、いい加減、学校教育(公教育)にフリーライドするのではなく、自前で教育機関でも作って、「人材教育」(人材「飼育」?)に乗り出せばよいのではないか。


そして、従来型の学校教育と競いあう状況が生まれるなら、それこそがお望み通りの競争原理というやつではなかろうか?