days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

シンポジウム(2015.07.23 @千葉大学)の後に

今日のシンポジウムには、学部生、大学院生、卒業生、現職教員、教員OB、さらには様々な立場の市民まで、多くの方々が参加していたようです(大幅に時間を延長してもなお、手が上がり続ける状況でした)。


私自身は、もともと大した話を用意していったわけでもなかったのですが、それでも、会場の人数と熱気を感じて、なるべく多くの来場者の方に発言してもらえるといいな、と思って、一応は用意していったメモも見ずに、ごく簡単な話をして、用意していった坂口安吾の言葉を読み上げる、ということにとどめました。


ただ、自分としてはあまり内容のある話をできなかったかな、という気もして、ちょっとだけ心残り、という感じがあるのも事実。


……というわけで、一応用意していたメモを元に、シンポの場で大幅に端折った内容を復元(?)し、さらにいろいろと書き加えたものを、ここに残しておくことにします。


大した内容ではないけれど、一つの記録として。




安保法案に関する緊急シンポを千葉大の中で行うから、ぜひ何か発言してほしい、ということでお声かけをいただき、二つ返事で承諾してここにきたものの、私の専門は国際政治でも憲法でもなく、日本の近現代文学である。


したがって、ここで集団的自衛権行使の是非について、というような専門的なお話はできないわけだが、それでもこうした場に出てきたのは、むしろ、そのような立場でこそ、きちんと発言すべきことがあるだろう、と思うからである。


話は単純である。このたびの自民党・安倍政権の動き方は、根本的な原理原則という観点から、まったく賛成できない、ということに尽きる。


もし、今回制定されようとしているような法制によって「集団的自衛権」の行使を可能にしておくことが必要であるなら、それを論理的に説明し、なおかつ、現行の憲法との矛盾を解消すべきである。


つまり、正当な手続きを踏んで憲法を改正する、ということなしに、「解釈」を変更する、などという不当なやり方で、なし崩し的に法改正を行うことなど、到底許されるはずがない。


従って、そもそも現段階では、「集団的自衛権」は必要か? などという議論をするべきではない、と私は思う。


しかし、いまこの状況で原理原則ばかりを言い募っていてもどうにもならないし、一介の文学研究者であって、政治や法の専門家ではない私のような人間が、こんなところで発言することは、「床屋政談」以上の意味もないかとも思われるので、以下、少しだけ、「文学研究者として」発言してみたいと思う。


ごく最近のことだが(7月20日)、安倍首相がテレビに出演し、安保法制の必要性について説明をしていた。


ネット上で「生肉」と揶揄されるような奇妙な模型を使って、戦争を「火事」になぞらえつつ、要はどのタイミングで、どこまで消火活動に出向くのがベストなのか、というような話をしたかったらしい。


つまり、近隣地域で「火事」が起こっているとしたら、それが我が家の敷地内(=日本の領土内)でなくても、積極的に出向いていって延焼を未然に防ぐことが必要だ、という〈喩え話〉で、「集団的自衛権」の必要性を説明する、ということに、テレビ出演の狙いはあったらしい。


私は、比喩表現を含むさまざまな〈レトリック〉について研究することを大事な仕事としている「文学研究者」の一人として、こういう低劣な〈たとえ話〉なるものを到底看過することはできない。人を馬鹿にするのもたいがいにしろ、という気分になる。


これが〈比喩〉としていかに〈なっていない〉のか、ということは、それこそ「火を見るより明らか」である。



「火事」で燃えさかる火には〈意志〉はない。それは、単に消すことができるかできないか、という対象でしかない。



しかし、「戦争」における〈敵国〉には〈意志〉があり、戦闘がおさまるかどうか、ということに関しては、火を消す側の意志とがんばりによってどうにかなるようなものではない。



むしろ、「火に油を注ぐ」ようなことになることの方が、よほど多いのではないか、ということは、誰でも想像できそうなことである。


そもそも、「戦争」には何らかの「理由」があり、それが開始されるまでの「文脈」があるはずであり、気がついていたら燃え上がっていた、といいうような「火事」と同じではありえない。


それに、実際に火の手が上がる前に=「戦争」が始まるという最悪の事態が実際に起こってしまう前に、なすべきことがいくらでもあるはずでもある(私自身はこういう具体的な政治には疎いが、いわゆる「外交努力」ということが、武力行使に先立つことは言うまでもない)。


こういう低劣な比喩で一般市民を説得できると思っているのだとすれば、われわれ市民は相当にナメられているのだろうとも思うが、一方で、あのように低劣な比喩でもって政治を語るような人間を送り出してきてしまったことを、われわれ研究者・教育者は恥じなくてはならないのかとも思う。


それこそ「国語」の試験問題で、比喩に関する以上のような説明がなされていたら、まず間違いなく「0点」である。単純に言って、「戦争」を「火事」の比喩で語る、という前提条件が成り立っていないのだから。


それにしても、一国の首相が堂々と、かくも低劣な〈たとえ話〉をしているのを目の当たりにすると、昨今の大学における「人文系」の教養教育に対する低評価は、こういう〈たとえ話〉にもならないような説明を疑問視するような基礎能力を市民から奪い取っておく、という狙いがあるのか? とさえ言いたくなる。


では、こういうくだらない〈たとえ話〉(を弄する者)に対して、どのように応接するべきなのか。



「文学研究者」としての私は、低劣な〈たとえ話〉などよりも、もっとずっと強度のある文学の言葉を突きつけたいと考える。低劣な「解釈」を撥ねつけるような言葉を示し、その重みを受け止めるような場を用意していきたいと思う。


こういう強度のある言葉のストックを、その言葉が発せられた文脈と共に記憶し、それを異なる文脈へと接続してみせる、ということこそ、「文学研究者」(あるいは、「文学研究者」を含め、「人文学」に携わるもの全般)の大事な使命だと思うからである。


そこで、最後に紹介しておきたいのは、私自身の主要な研究対象でもある、作家・坂口安吾の「もう軍備はいらない」という1952年の文章である。


1955年に亡くなった坂口安吾は、55年体制以降の日本のことを知らず、従って、この文章も52年に行われた「警察予備隊」の「保安隊」(自衛隊の前身組織)への改編について書かれた文章である(文芸雑誌「文学界」の特集「再軍備と作家」に寄稿されたもので、中野重治武者小路実篤らの文章と共に掲載された)。


しかし、この文章の基調をなす次のような言葉は、いま現在の日本の状況に対する痛烈な批判として読みうるのではないか。


坂口安吾「もう軍備はいらない」(「文学界」1952年10月)より




自分が国防のない国へ攻めこんだあげくに負けて無腰にされながら、今や国防と軍隊の必要を説き、どこかに攻めこんでくる兇悪犯人が居るような云い方はヨタモンのチンピラどもの言いぐさに似てるな。ブタ箱から出てきた足でさッそくドスをのむ奴の云いぐさだ。

[略]

ここのウチへ間抜け泥棒が忍びこむよりも、このオヤジが殺人強盗に転ずる率が多いのは分りきった話じゃないか。

[略]

ピストルやダンビラを枕もとに並べ、用心棒や猛犬を飼って国防を厳にする必要があるのは金持のことである。

[略]

国防は武力に限るときめてかかっているのは軽率であろう。

[略]

美しい芸術を創ったり、うまい食べ物を造ったり、便利な生活を考案したりして、またそれを味うことが行きわたっているような生活自体を誰も盗むことができないだろう。すくなくとも、その国が自ら戦争さえしなければ、それがこわされる筈はあるまい。


このような生活自体の高さや豊かさというものは、それを守るために戦争することも必要ではなくなる性質のものだ。

[略]

この地上に本当に戦争をしたがっている誰かがいるのであろうか。


まるで焼鳥のように折り重なってる黒コゲの屍体の上を吹きまくってくる砂塵にまみれて道を歩きながらイナゴのまじった赤黒いパンをかじっていたころを思いだすよ。

[略]

現在どこかに本当に戦争したがっている総理大臣のような人物がいるとすれば、その存在は不気味というような感情を全く通りこしている存在だ。

[略]

戦争にも正義があるし、大義名分があるというようなことは大ウソである。戦争とは人を殺すだけのことでしかないのである。その人殺しは全然ムダで損だらけの手間にすぎない。


戦後「7年」の1952年の段階での状態と、戦後「70年」にあたる2015年の現在とが、まったく同じ言葉で批評されてしまう、ということには暗澹たる思いがするが、しかし、これが人間というものの本質だということであるなら、我々は何度でも同じことについて、繰り返し声を挙げていくほかないのだろうと思う。


実は、「7月15日」前後が衆議院強行採決になるのではないか、という時期に、この緊急シンポを「7月23日」に行うという話を伺ったとき、いささか出遅れていないか?という気がしなくもなかった。


しかし、むしろこのタイミングでシンポをやっていることには、少なからぬ意味がある、と今は思う。


政治家たちはどうやら、「時間がたてば国民はどうせ忘れる」「デモもすぐに下火になる」と考えているらしい。


そうであるならば、われわれは「忘れないぞ」ということを、今後とも声高に言い続けなければならないだろう。


そして、安吾の言う「戦争とは人を殺すだけのことでしかない」というこの身も蓋もない〈リアリズム〉―直接に戦争を経験した人から手渡されたこの言葉、この認識を、われわれは決して手放すべきではないだろう。


そして最後に。


こうした大学内のシンポジウムという場の〈外〉で、学者とか学生とか、そういった肩書きの付かない場においてこそ、そこで通用する平易な言葉と論理で、語ることが必要だろうと思う。


政治的信条を共有しない、あるいはそもそも、あまり政治などに関心を持たないのかもしれない、家族に、ご近所の人に、学校や職場の友人に、行きつけのお店の人と、今日この場で交わされたような意見を、もっと平易な言葉で交わせなくてはいけないと思っている。


大学の中で何十人、何百人と集まっていても、大学教員が「学者」という肩書きの元に何かを発信しても、ただそれだけでは、むしろ逆効果になる(「〈世間〉知らずのあいつらには〈現実〉が見えていない」などといった罵倒を呼び込む)、という感触があることは、残念ながら事実である。


だから、教員も学生も、それぞれのプライヴェートな場面でこそ、いまの政治への疑念を臆することなく、語る(というより、むしろ「呟く」ぐらいが適当だろうか?)ことが必要だろうと思う。


そして、そういったバラバラな個人が、バラバラな個人として、カジュアルに(…というと語弊はあるかもしれないが)国会前に集まってみたり、各地でデモに参加してみたりして、その経験を個人的に語る(呟く)……というような連鎖が起こりつづければよいと思っている。


なんだかとても悠長なことを言っているようだが、こういう〈ユルさ〉から始まらなければ、結局何も変わりはしないのではないか、と私は思う。