days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

文章表現と規範

本務校で例年開講している「普遍教育」(いわゆる一般教養)の授業で、今年は「国語」教科書の中の文学作品を再読してみよう(ただし、文学研究の視点から)、というような講義をしてみた。 扱った作品は『舞姫』『こころ』から始めて、『走れメロス』『夏の花』まで(最後には『いちご同盟』と『四月は君の嘘』を絡めて話すというおまけ付き)。


時間割設定上の問題があって、文学部の学生はほとんど受講しない(できない)という状況になってしまったので、受講生は例年より少なめ(20名前後?)と予想していたのに、いざ講義室に出向いてみると、廊下や階段にまで受講希望者が溢れかえっている状態。


結局、受講者数は120名くらいになり、しかも授業終盤まで出席者はあまり減らない。コメントシートには毎回、アツいコメントがぎっしり書き込まれてくる。いろいろ想定外の事態だったけれど、どうも皆、「教科書」というメディアや、かつて受けた「国語」の授業というものについて、それぞれに密度の高い記憶を持っているのだということがうかがわれた。


そして、学期末。成績評価のための課題ということで、ある教科書掲載作品について、自分なりの視点で論じてみてほしい(どのように論じるのか、というやり方については、これまでの講義内容を参考にしてほしい)という、ざっくりとした課題を出すことにした(事前に作品は告知し、十分に下準備をした上で、試験当日に答案用紙へ書き込んでもらうというスタイル)。これまでの講義内容へのレスポンスと、授業中の雰囲気から考えて、興味深い答案も少なからず出てくるだろう、という期待もあった。


実際、試験時間めいいっぱいを使って、答案用紙をぎっしり文字で埋めた答案も多数あり、採点は大変だけれど、興味深い答案もあるだろうから楽しみだな、などとお気楽に考えていた。


しかし、である。


いざ答案を読み始めてみると、多くの答案が判で押したように同じようなパターンで書かれている。内容が何かのパクりである、というのとは違う意味において、どれもこれも似通っているのである。


まずは物語のあらすじを示し、それを読んだ自分の「感想」(それも、倫理的に「正しい」、とても優等生的なもの)を記し、自分自身の体験や日常生活と引き合わせてみた上で、「勉強になった」「感動した」「これから自分も、この物語を踏まえて前向きに生きていきたい」云々といった文言が並ぶ…。これは明らかに、いわゆる「読書感想文」の定型そのものである。


普段の講義後に記すレスポンスカードで、《「国語」の時間には気づかなかった(考えもしなかった)ような文学作品の捉え方はとても興味深かった》、《「国語」の時間での文学の読解は、お約束(型)の確認・反復でしかなく、だから退屈したのかもしれない》といったことをアツく書いてくれていた受講者たちが、いざまとまった長さの文章で文学作品を「論じる」ということをやってみると、いかにも「国語」の時間的な「読書感想文」のフォーマットで書いてしまう…。うーん、と頭を抱えてしまった。


もちろん、非はこちらにある。少なくとも、「読書感想文」を書かれても困ります! ということを、はっきり伝えてはいなかったのだから。


これが自分の所属する専門課程の1年生向け導入教育であれば、最低限のアカデミック・ライティングの作法は教えるし、実際そこで私は毎年、「レポート」と「読書感想文」の違いということについて話をしている。


しかし、今回は一般教養の授業でもあり、なおかつ、わざわざ専門外である文学関係の授業を履修し、休まず参加して大まじめにコメントカードを書いてくれる皆さんがお相手ということで、完全に油断していた。「読書感想文」の呪縛、恐るべしである。


……というわけで、いろいろと反省しながら採点業務をこなしていたわけだけれど、そんなある日、せっせと夏休みの宿題に励む息子(小3)の持っていたプリントを見て、のけぞった。


それは、穴埋め式で「読書感想文」を完成させるいわゆる「テンプレート」だった。そして、その内容はまさしく、自分がせっせと採点していた答案の山に共通する型そのものだった。


「いまどきはこんなものがあるのか!」という驚きと共に、そのことをツイッターに書いてみた。同様に驚いた人は多かったようで、リツイートは4000件を越えていった。テンプレートを作って配布することの是非、それを使用させることの是非ということをめぐって、アツい議論が繰り広げられるのを、興味深く眺めさせていただいた。


いま、私自身の思うところを改めて記しておけば、以下のようになる。


文章表現の教育におけるテンプレート(型)の存在そのものを否定する気は毛頭ない。社会生活の中で、テンプレート通りの業務文書なりお手紙なりを読んだり書いたりする場面というのは山ほどあるのだから、これをきちんと使いこなすリテラシーというのは、当然必要である。


むしろ問題は、「型」についてきちんと教えないまま、「自分の見たまま」「感じたまま」を「自分の言葉」で書きなさい、などと言い放つ側の無責任さにある。「読書感想文」を書きなさい、と指示する教員は、「こういうものを期待しているのですよ」という「型」を予めきちんと明示するべきだろう。


実は、こうした「型」の存在については、読書感想文コンクールの入賞作をいくつか読んでみればすぐにわかる。しかし、おそらく「読書感想文」を書かせる側は、こうした「型」を明示することはしない。それでは、その子ならではの〈オリジナル〉な感想が表出されない、ということになるから。そして、多くの子どもが原稿用紙を前にして頭を抱えることになる。


「型」があるのにその存在を明示せず、隠微な形で同調を迫る。これは、悪しき意味での伝統的な「国語」の時間の作法そのものである。(「優等生」だった人を除けば)誰しもこのお作法に、多かれ少なかれ苦い思いをさせられたからこそ、「国語」教科書の文学作品を読みかえてしまおう、という授業に受講者が集まるし、読書感想文をめぐるツイートが盛り上がる。


今回改めて思ったことは、制度(イベント?)としての「読書感想文」なんてもうやめましょうよ、ということであった。こんなもの、夏休みのラジオ体操以上に意味がないのではないだろうか?


「読書感想文」テンプレートによれば、本を読んだら必ず肯定的な感想(「感動」!)を抱かねばならず、それを自分自身の日常生活に一度は引きつけた上で、今後の人生を前向きに生きなければならない。そんな空疎な言葉を型どおりに並べるために本を読む必要など、まったくないのではないか?


本を読めばだれでも何かしら「感想」らしきに何かを抱く。「この本を読んでも何にひとつ感じ取ることがなかった」、ということでさえ、ひとつの「感想」である。何も「感動」することだけが「感想」ではない。


これは「読書感想文」と「(大学における)レポート」の違いとして初年次教育の授業でよく話すことでもあるが、重要なのは漠然たる「感想」(面白かった、つまらなかった、ということ)を抱いておしまいにするのではなく、そこで「なぜ?」ということを考えることである。


なぜ自分はこの本を「面白い」「つまらない」と感じたのか? 具体的に「どこ」が面白かった(つまらなかった)のか? そのような自分の感想は一般的なものなのか特殊なものなのか? その一般性/特殊性を支える条件(国籍、民族性、歴史性、社会状況、ジェンダー等々)とは何か? ……と思考していけば、そして、それをロジカルに論述しようとすれば、それは「読書感想文」とはまったく異なるものとなる。


もちろん、こうした思考の深め方と、その思考に関する叙述方法にも「型」がある。そして、少し極論めいた言い方をすれば、こうした「型」を教えることが、(人文系の)教員にできるほとんど唯一のことなのではないか、と私は考えている。