days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

「世界は変えられる」のか?

東京外語大で行われた「《災害ユートピア》から検証する3.11」
というシンポジウムに行ってきました。


※当日の録画がUstreamにあります。
http://www.ustream.tv/recorded/21075172
http://www.ustream.tv/recorded/21077004


「世界は変えられるという予感―3.11/原発人災/〈占拠〉と
街頭の公共性」という連続企画の3回目で、今回は『災害ユートピア
の著者レベッカ・ソルニットさんをゲストに迎えての企画。


ソルニットさんの基調講演の後、渋谷望さんのコメント、さらに
ディスカッサントを交えたディスカッション、という流れ。


事前のアナウンスではディスカッサントは外語大の岩崎稔さんと
明仁さん(外語大非常勤/国際協力NGOセンター[JANIC])という
ことになっていたのですが、岩崎さんは最初の挨拶だけの登場で、
代わりに壇上には(事前の告知にはなかったのだけれど)佐藤泉さん。


もともと、佐藤さんに教えてもらって足を運んだ今回のイベント。
受付のところで佐藤さんにたまたま会って、「ようこそ」みたいな
ことを言われて「??」と思っていたのですが、会場に入って壇上に
佐藤さんの名前を見つけ、「え? そういうことだったの?!」と
ちょっと驚ろかされたのでした(事前の案内には佐藤さんの名前は
なかったので)。


最初はソルニットさんの講演。予め英文とその日本語訳(小田原琳さん
による)が配付されており、壇上のソルニットさんは基本的にこれを
1パラグラフごとに読み上げると、脇についていている通訳の方が
それを日本語に訳して会場に伝える、というスタイルでした。


内容は基本的に『災害ユートピア』の内容と連続したもの。
要点は概ね以下のようなところにあったと思います。
(配付された文章とその日本語訳は「禁転載」とのことなので、
自分でいい加減に訳しながら概略を紹介してみます)


起きてしまった災害の後、我々は単に日常に戻るのではなく、
草の根レベルでの社会の力の中で新しく生まれる喜び
や活気(joy and exhilaration in the newfound sense of grassroots
social power)を、いかに継続させるのかということが
問われる。


災害は権力者/エリートにとって、いつでも政治的(political)な
ものとして生起し、権力者は我々を抑圧(repress)しようとする
けれど、我々は我々自身の力(our own power)を再発見して
対峙しなくてはならないし、そうするべきである。


そして、われわれを結束させる力とは、親密圏の中に閉じない
公共的な愛(public love)―すなわち場所に基づく愛(love of place)、
市民社会に基づく愛(love of civil society)などなど、
つまり広い意味での自らのhomeへの愛―である。


こういうhomeがわれわれにあれば、そこに公共的な愛が生まれれば、
社会は変えられるし、それは必ずしも遙か彼方の未来の話ではない
はずだ。


かなり大雑把に要約してしまいましたが、概ねこのようなお話
だったと思います(補足しておくと、講演の後半でソルニットさんは
話を自然災害のみならず、ギリシア、スペインなどにおける政治的
/経済的な災害(political/economic disaster)にも言及し、
両者の間に根本的な差違はない、とも述べていました)。


しかし、言うまでもなく現在この国で起こっているのは、自らの
homeを奪われてしまった人々が大量に生まれている、という現実
です。


原発災害は瞬間的に起こり、その直後から〈復興〉が開始されるような
単純な自然災害とは違う、もっと「緩慢な災害」であり、むしろ「公害」
という認識で捉えられるべきではないのか、というコメンテーターの
渋谷さんが述べていた認識は重要だと思います。


渋谷さんも言うように、我々は「公害」に関する歴史的蓄積を少なからず
持っているのだし、それは今後、十分に参照されなければならない。
そして、文学研究者も含む人文学の研究者のような存在もまた、その
ような角度から、今後ものを考える必要があるように思います。


シンポジウムの壇上では、しばしばソルニットさんの言葉の「詩的」な
「美しさ」ということが語られていました。むろん肯定的な意味合いで
使われていたのだと思いますが、これは簡単に「綺麗事でしかない」
「理想でしかない」といった意味にも反転してしまう。ここは
難しいところです。


「詩的」な言葉で「美しく怒る」、「怒る」ことと「喜ぶ」ことが
同居するような状態から生まれる連帯こそが「災害ユートピア」だとする
なら、確かにそれはいかにも「文学的」であり、文学の出番だ! という
ことにもなるのかもしれない。


ディスカッサントとして壇上に上がっていた佐藤さんの口からは
確信犯的に楽観主義(?)の言葉が語られていたけれど、しかし
これは別に空理空論だとも思われない。


このところ地方政治や教育をめぐって物騒なニュースがしょっちゅう
噴出している大阪で起こっているのは、「わかりやすく、そして醜く怒る」
首長の言葉によって、人がどんどんバラバラになっていくという
光景に他ならない。


こんな時にカウンターとして機能しうるのは、ツイッターなりニコ生なりで
論争し罵倒し合うような言葉とは違う、「美しく怒る」言葉なのかなあ、と
思います。


そして、そんな言葉を歴史のストックの中から探し出し差し出してみせる
というのも研究者の仕事なのだろう、と改めて考えたのでした。