days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

文学研究と「読む」こと ※2013.11.05 ちょっとだけ追記

文学研究の仕事とは? ということについて、最近ツイッターで書いたことをこちらにまとめ直しておきます。


最近、あちこちで授業をしたり、あるいは研究会や学会の発表を聞いていて遭遇する光景。


発表者はある文学作品を取り上げつつ、「作品中の××表象」を「同時代言説と対比」しつつ考察する、という。そして、それ相応に手間暇のかかる調査の結果を報告するのだけれど、それだけで終わってしまう。


当該文学テクストのナラティブもプロットも、その他諸々の細部も、そこでは論じられることがない。そして、他の参加者はそもそも当該テクストを読んできてさえいないし、そのことに対して特に気まずさも引け目も感じていない様子。議論の枠組みは発表者がコンパクトにまとめてあるので、参加者はその枠の中で議論することになる。


んん? でも、それって、別にその文学テクストを扱わなくてもできる議論なのではないか? そもそも、ある時代における「××表象」について考える上で、文学テクストが資料としてベストチョイスとは言えないことの方が多いのではないか?


どうも、そこでは「同時代性」とか「表象」とかいった言葉が、文学テクストをきちんと読まない/読めないことについてのエクスキューズとして用いられている気配である。


作品の自律性を疑い、歴史的コンテクストを踏まえて相対化する? たしかに、一時期しきりにそのようなことがわがギョーカイの中で語られたのは確かである。しかし、このような疑念の表明や相対化の試みというのは、それに先立って措定される自律的価値があってこそのものでなかったか。


戦略的・方法的に、わかりやすい作品解釈=唯一解を回避し相対化するというのと、端から作品を論じようとしないというのとでは、大きく異なる。文学テクストを「表象」のストックとして断片化して扱ってしまうくらいなら、むしろ文学テクストのような厄介な代物など対象にする必要がない、ということになる(これでは、ダメなタイプの「歴史研究」が文学テクストを資料として持ち出すときの典型ではないか)。


文学研究が新歴史主義をくぐって文化研究的な方向に舵を切ったとき、そこで前提になっていたのは、文学テクストを読み論じるのと同じ精度で言説一般を読む、ということではなかっただろうか(そうすることで特権化された文学を相対化する、ということ)。



《「小説の書けない小説家」を書いた小説を論じる「小説の読めない文学研究者」》。――洒落にならない洒落のような話をを思いついてしまった。



追記(2013.11.05)


文学テクストを「読む」というと、専ら「内容」に関することばかりを意味しがちであるし、上記の文章もまたそのように受け取れる書き方になっているのは確かだけれど、私自身は必ずしもそのように考えているわけではない(つもり)です。


文学テクストを「読む」ことの中には、時代や地域、あるいは書き手の世代や教育環境に特有の表現形式(それこそ、語彙の選択レヴェルからの)に注意を向けることも含まれる。


あるいは、その文学テクストが先行するいかなるテクストを典拠として(自覚的に/無自覚的に)踏まえているのか、そのことを読者の側はどの程度理解できるのか/できないのか、といったことについて丹念に考えていくこともまた、文学テクストを「読む」ことに他ならないし、それを徹底することが文学研究者が担うべき大事な仕事だろうと思っています。


…などということを、大橋崇行さんによる以下の連投ツイートを読みながら考えた次第。