days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

沈黙の言葉

ちょっと捜しものがあって、HDDの中のファイルをいろいろと開いていたら、だいぶ前に書いた文章が出てきた。


これは、前の職場(学習院高等科)で文芸部の学生に、文化祭に合わせて発行する会誌に何か寄稿してほしいと求められて、大急ぎで書いたものだったと思う。


どういうことを考えながらこんな文章を書いたのか今となっては思い出せないけれど、珍しく詩について書いているのは、ちょうどそんな授業を「現代文」の時間にやっていたからなのかもしれない。


短い時間でラフに書いたものではあるけれど、記録として残しておこうと思い、貼り付けておくにする。



沈黙の言葉

1.沈黙と空白


石原吉郎という詩人がいる。敗戦後、ソ連に捕虜として抑留され、ラーゲリ強制収容所)で過酷な徒刑体験をした彼は、「詩とは何か」という問いに対して、次のような答えを提示している。

ただ私には、私なりの答えがある。詩は、「書くまい」とする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれない。だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたことは事実である。詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、詩の全体をささえるのである。(石原吉郎「詩の定義」引用は『石原吉郎詩文集』[二〇〇五・六、講談社文芸文庫]による)


ふつう、人は誰かに何かを伝えたいから言葉を綴る、と考える。強調したいことがあれば、何度も言葉を重ねるし、たくさん言いたいことがあれば、たくさん言葉を重ねる。文学者であろうとなかろうと、人は、自分の心の中、頭の中にあふれる何かを伝えるために、言葉を綴るのだと、単純に考えている。


だからこそ、そのようにして綴られた言葉は丁寧に、正確に読まれなければならない―こうした前提のもとに、たとえば学校における「国語」の時間は存在しているのだろう。自分一人で読めば一時間もかからないような文章に一ヶ月を費やすような贅沢な時間は、書き手から発信された言葉に、耳を澄ます訓練を行うためにある。


しかし、いまここに示された言葉は、「「書くまい」とする衝動」に基づくものである、とされたなら、われわれはいったいそこに何を読み取り、聴き取ればよいのか。詩の言葉は「沈黙を語るため」にある、と言われたら、われわれは、そのような言葉に対して、どう応じればよいのか。ただ、黙して佇立するしかないのか。


見るからに空白だらけの、しばしば句読点も打たれずに漂泊する、詩独特の言葉たちを前にして、われわれは呆然としてしまう。中途半端な解釈/解説を行うぐらいなら、各自が黙してしみじみ鑑賞すればいい、ということなのかもしれない、とさえ思う。


しかし、石原はこうも記していたはずだ。詩を貫くのは「失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志」なのだ、と。つまり詩は、単に沈黙/空白として、われわれの前に投げ出されているわけではない。そうではなく、むしろ、そうした沈黙/空白が襲いかかってくるような危機的/批評的な場所に立ち止まっている者が、その沈黙/空白に対峙しながら、ギリギリのところで踏みとどまっている、という状況そのものを、詩人たちは詩の言葉に託す。われわれは、そのような詩人の「意志」に、耳を澄ませばよいのではなかろうか。

2.泡のような私


原幸子のよく知られた詩のひとつに「無題(ナンセンス)」という作品がある。

風 吹いてゐる
木 立ってゐる
ああ こんなよる 立つてゐるのね 木


冒頭部分のこのような言葉のことを、かつて前田愛は「呼び掛ける言葉」だと評した(前田愛「呼び掛ける言葉」、『前田愛著作集』所収)。それは、われわれの日常的な言葉とは異なり、なにかを説明しているわけではない。むしろ、それは対象にただ「呼び掛け」、そこに何らかの関係を確立し、あるいはその関係を(再)確認するための、詩人の言葉である、というのである。ただ、「木」と語ったところで、それが何の木なのかさえ分からない以上、この言葉は何も説明していない。つまり、こうした言葉は、何かを説明しようとする意図に基づいているのではなく、むしろ、説明しがたい何か―沈黙/空白の領域の存在を認め、そのような沈黙/空白が自分自身をも浸潤してしまうような危機的/批評的な状況にあって、そこから何かを語りだそうとする詩人の意志に貫かれていると言うべきだろう。


こんな詩人「わたし」は「浴室」で「ぬるいお湯」に身を浸し、戯れに「せっけんの泡」を口に含む。

よふけの ひとりの 浴室の
せっけんの泡 かにみたいに吐き出す にがいあそび
ぬるいお湯


風呂で湯に浸かり、泡に包まれる快楽は、日々、衣服によって拘束され、人の視線に曝されることによって、常に締め上げられている「わたし」という存在のタイトな境界線が、ゆるやかにほどかれていくことにあるだろう。湯に浸かって、呻き声を漏らすとき、ぬめぬめとした「せっけんの泡」に包まれるとき、人は一日の間にこらえ続けてきた毒に満ちた「わたし」の中身を、湯や泡の中に排出するのかもしれない。


しかし、それは同時に、ふだん辛うじて支えている(他者によって支えられている)「わたし」という存在の確かさを、失ってしまう瞬間でもある。そんな「わたし」の流失という危機を避けるために、「わたし」は「木」に呼び掛ける。あるいは、浴室の壁面を這う「なめくぢ」に向かって、こんな風に呼び掛ける。

なめくぢ 匍つてゐる
浴室の ぬれたタイルを
ああ こんなよる 匍つてゐるのね なめくぢ


おまへに塩をかけてやる
するとおまへは ゐなくなるくせに そこにゐる


「なめくぢ」は自分である。「塩」によって、浸透圧のバランスが微妙に変化してしまえば、たちまち流失してしまうような、不安定な身体としての「わたし」。そして、「わたし」が消えてしまえば、後には何も残らない。沈黙/空白がすべてを飲み込んでしまう。 詩人は、こんなギリギリの場所(しかし、それは特殊な場所ではなく、あらゆる人が直面する場面でもある)に立って、言葉を発する。その言葉はやはり、「失語の一歩手前」から発せられるものなのだろう。


結びに代えて―


田村隆一の、これもよく知られた詩に、「帰途」と題する作品がある。呟きとも叫びとも取れるような、痛切なモノローグから始まる作品である。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか


言葉がなければ、辛い出来事を直視することもなく、自らの感情に向き合うこともなく、ただ「眺めて立ち去る」ことができるであろうに、と、詩人「ぼく」は、吐き出すように言う。「言葉のない世界」、そんな沈黙/空白の世界を生きるなら、「ぼく」はネガティヴな感情を抱え込むこともなく、平穏な生活を営むことができるのかもしれない。


しかし、詩の結末部にいたって、「ぼく」は次のように記すのだ。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる


言葉をおぼえた「おかげで」、「ぼく」は「あなた」/「きみ」のいる、この「血」と「涙」の流れるネガティヴな世界に立ち帰り、そこに佇立する。「おかげで」という言い方には、「…のおかげでひどい目に遭う」というニュアンスもあるし、「…のおかげで救われる」というニュアンスもあるだろう。


「血」と「涙」の苦しみは、時にとても激しく、およそ言語を絶するような痛みが、自らに襲いかかるかもしれない。しかし、そんな沈黙/空白の迫ってくるようなギリギリの場所から、詩の言葉は紡がれる。私は、そんな切実な言葉の連なりに耳を澄ませてみることが、嫌いではない。
 

沈黙/空白が口を開いて、私を飲み込もうとするとき、その口の中には、何かが見える。それはたとえば、こんな光景かもしれない。
    

お前には不意に明日が見える
明後日が………
十年先が
脱ぎ捨てられたシャツの形で
食べ残されたパンの形で


お前のささやかな家はまだ建たない
お前の妻の手は荒れたまま
お前の娘の学資は乏しいまま
小さな夢は小さな夢のままで
お前の中に


そのままの形で
醜くぶら下がっている
色あせながら
半ばくずれかけながら………
黒田三郎「ただ過ぎ去るために」より)