days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

教員免許3段階制?

教員免許を3段階にするという中教審の提示案、何を考えているのか、どうも腑に落ちません。そこで、元・高校教員として、そして、これから何人もの卒業生を大学から教職の現場に送り出すことになるであろう立場の人間として、思うところを書き付けておこうと思います。



教員養成を実質的に6年化するという方向性自体は必ずしも間違ってはいない。いまの大学および大学生の状況を考えれば、学部の4年間だけでは教壇に立つほどの教養を積み、人間的な成長を遂げるには圧倒的に時間が足りないと思われるから。


しかし、大卒者に「基礎免許」を与え、その「基礎免許」をもってとりあえず教職(補助職?)に就いた者が、さらに「教職大学院など」で学ぶことで「一般免許」を与えられる、というプロセスは、いろいろな意味で非現実的だし、教育現場にとっても望ましくないように思う。


まず、この制度が実現すると、教員志望の学生は必ず学部段階で教職に就くかどうかの選択をしなくてはならず、大学院進学・修了後に教職という選択肢を考えることができなくなるのではないだろうか。


私自身の経験から言えば、教員になる人は必ずしも学部入学時からずっと一途に教職希望だというわけではない。かつて勤めた高校の職場でも、私自身を含めて、教職に就くことを現実的に考えたのは大学院に入ってから、という教員が少なからずいた。


それはつまり、自分の専攻したい学問分野がまずあり、その学問を勉強したい、という思いから大学院に進学し、そこを修了するに当たってはじめて、現実的な就職先として教職という選択肢が浮上する、ということ。


しかし、(自分のことは措くとして)そうしたライフコースをたどってきた教員は、概して「いい先生」たちだった、と私は思う。


まず、そうした人たちは、自分の専門分野について(しばしば学校で教える領域からは外れるほどの)高度な教養をもっていて、なおかつ教職に就いてからも知的好奇心・向上心はとても高い。このことは、(とりわけ中等教育段階においては)生徒たちが教員に寄せる信頼の基礎条件ではないだろうか。


授業の内容以上の質問を受けたら途端におろおろしてしまうような教養しか持ち合わせない教員、教科書以上のことをなにも教えていくれない教員のことを、生徒たちは直感的に感じ取り、すぐさま見下す。


指導力」などとよく言うけれど、こと授業時間に関する限り、生徒が教員を見下す瞬間とは、その教員の教養レベルでの底の浅さが見透かされたときではないか、と私は思う。


逆に言えば、ホームルームの運営「技術」だとか、板書の「技術」だとか、そのようなものによって、教員と生徒の信頼関係が構築されるわけではない。むしろ、そんな「技術」のない教員=「ダメな先生」の方が、よほど生徒たちから愛されるのではないか、とさえ思う。


誤解のないように付け加えると、これは別に、教育学部出身の先生がよろしくない、という意味では全くない。


むしろ、教員がみんな「ダメ」教員だったらそれこそ大問題であり、むしろ教職に対してしっかりとした理念と理想を持ち、それを実現するべく教育学部のような場所で学び、教員となっていく……というような人たちがいなければ、そもそも学校という組織が成り立たなくなる。


自分の経験に基づいて言えば、教育学部出身の先生たちは、よい意味で教育活動全般について「まじめ」な方々だったけれども、それは学校経営上欠かせない資質であるし、それもまた生徒からの信頼を保証する大事な大事な資質である。


私が言いたいのは次のようなことだ。


学校という場はそれ自体一つの「社会」であり、しかも実際の「社会」に出る前段階の学生が「社会」性を身につけるための場である以上、そうした「社会」には多様性が担保されなくてはならないはずである。


生徒にとっては「相性のいい先生」も「相性の悪い先生」もいるし、その「相性」には個人差も大きく作用する。


しかし、もし教員が一様な養成課程を経て、一様な研修システムを受けた均一性の強い集団として生徒の前にあるとしたらどうか。これは、ある種の生徒にとっては耐えがたい事態ではないのか。


また、中教審の提示するプランは、授業のうちの少なからぬ部分を非常勤講師によってまかなっている私立の中学・高校の現状から考えても、かなり非現実的であるように思える。


非常勤講師の職を担うのは、多くの場合大学院生やポストドクターたちである。彼らにとって、この仕事は日々の生活と自らの研究を支えるための重要な収入源であり、しかもとりわけ文系の場合、彼らが将来的に中等教育であれ、高等教育であれ、ともかく「教える」という仕事に就く可能性の高いことを思えば、重要な「研修期間」である(私自身がそうだった)。


また、こうした経験の中から、それまで具体的に教職に就くことをそれほど現実的な選択肢に入れていなかった人が、自らの適性に気づいていくということもあるし、また逆に、教員には向いてない、ということを認識する契機になることもあるだろう。

一方、中学や高校の側からすれば、現状のシステムは、専任教員を採用する場面があれば、こうして経験を重ねていく講師の中から、力量があり、その学校にフィットしそうな人物を積極的に採用していくことができる、というメリットを持っている。


むろん、実際の採用人事は公募で行うにせよ、書類や面接だけでは見えない部分(教員としての実績)までをじかに知った上で、責任を持って採用することできるわけで、そうなれば試用期間のようなものを設定する必要もない(「ハズレだったらクビ」というような無責任なシステムは本当にやめたほうがいいと思うのだが、近年教職に関してはこのシステム付きの人事が少なくない)。




……とまあ、こんな感じで、最近報じられたこの「3段階制」議論、まったく意味不明です。中教審はいったい何を考えているのだろうか。