days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

地震の日のこと

地震の日のことを書いてみます。個人的な記憶として。


その日は午前中から国会図書館の憲政資料室でプランゲ文庫の
マイクロフィルムを見ていた。


あれ? 揺れている? と思い、隣の席の人と顔を見合わせて
いるうちに、どんどん揺れが増幅する。とりあえず壁沿いに
設置されている本棚からは離れ、部屋の中央付近にしゃがんで、
様子を見ていた。経験したことのないような揺れの大きさに、
ただ呆然とするしかなかった。


館内では非常放送が何度も流れ、出納停止情報やら交通機関
停止情報が流れる。


妻と携帯メールで連絡を取ろうとするもリアクションなし。


ツイッターがあったな、と思い、携帯からアクセスしてみると
TL上に妻のツイートを発見。こちらからもツイートした上で
DMを送る。そして、そのままTLを眺めながら、何が起こっている
のかを知る。


しばらく待機していたけれど、交通機関が復旧する様子はない
ので、閲覧していた資料をリザーブにして、17時に徒歩での
帰宅を決断。2〜3時間で到着するだろうと目算。


とりあえずエネルギー補給をしておこうと思い、6Fの売店
パンと飲み物を購入してお腹に入れながら、食堂のテレビで
初めて映像を見て、改めて現実を認識する。


帰宅手段としてバスを乗り継ぐかタクシーに乗るか、といった
選択肢も脳裏をかすめたけれど、外に出てみると永田町周辺の
道路は大渋滞。警察官が必死に交通整理をしている。


やはり歩いて帰るしかないか、と判断。


その間、自宅にいた妻が保育園の子どもを迎えに行き、自宅に
戻っているということを、これまたツイッターのDMのやりとりで
把握。ツイッターが通信手段として「使える」ものだという
ことを認識した。


外に出てみると、都心部は道路は車だけでなく歩行者もあふれ
かえっている。職場から持ってきたヘルメットをかぶった人、
非常持ち出し袋」を書かれたリュックを背負った人、いろいろ。


どうせ電車はしばらく動かないから、と口々に言葉を交わし
ながら、連れだって居酒屋などに入っていく人々もいれば、
ひとり黙々と早足に歩く人もいる。私は後者。


千川(豊島区)にある自宅に向けて、永田町から麹町、市ヶ谷、
早稲田、目白、椎名町、東長崎と、ひたすら歩き続けた。


途中、市ヶ谷の防衛省や曙橋の機動隊の前を通過したが、
どちらも中は騒然としている様子。


椎名町付近を歩いている頃になって、千葉の木更津にいる両親や
妹からの携帯メールが(かなり遅れて)届く。安否を気遣う
内容だったので、取り急ぎ現状を知らせる内容を返信。
もっとも、これもすぐに先方に届くとも思えなかったけれど。


そして、結局2時間10分ほどかかって、自宅に到着。改めてテレビや
ネットで、この日の出来事について確認。


実はこの日、本当は夕方から演劇評論をやっている友人と、
パルコ劇場で上演されている三谷幸喜の『国民の映画』を観に行く
約束だった。当然、上演中止になっていたのだけれど。


しかし、この演劇、翌日から上演を再開していた!
(その後、一度休演になってしまったけれど、その後、また
再開した)


何も、皆が何から何まで「自粛」し、萎縮してしまう必要はない。
(ちょうど、昭和天皇が死んだときのように)まして、この演劇は
ナチス文化政策を扱ったもの。


こういう演劇が、この状況下で上演されていることには意義がある
と思った。いかんせん、テレビや新聞といったメディアが奏で
つづけた「悲惨」と「危機」のユニゾンは、あまりに気色悪かった
から。


これから、いったい何がどうなっていくのか、よくわからない。
悲惨な状況にある被災地の復興にどれくらいの時間がかかるのか、
原発はどうなるのか、情報は錯綜する。


とりわけ、東電社員(火力発電所勤務だったけれど)の息子として
育てられ、会社の福利厚生に守られて育った幼少期を過ごした
自分のような者にとって、原発をめぐる劣悪な状況は、本当に心苦しい。





どうか、一日でも早く事態がよい方向に向かいますように。

震災で命を落とされた人々の冥福を祈りながら、うまく言葉に
ならない思いを抱えています。

※2011.3.22 加筆修正