days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

アトムの子

何のためにこんなことを書くのかわからないけれど、
おそらくは自分のために、書いておこうと思います。


前の記事でも少し書いたけれど、私の父は東電に勤めていた。
ずっと火力発電所勤務で、東京湾に面したいくつかの発電所
で勤め上げ、もうだいぶ前に定年退職している。


今のような事態を、父はどう思っているのか、まだ話をする
機会を持てずにいる。「もう東電はつぶれるんじゃないか」と
母には語っていたようだけれど。


いずれにせよ、電力供給が「復旧」することは、もうない
だろうし、それを供給する会社もまた、これまでのような
形に戻ることはないように思う。


しかし、どうやら世間を賑わせているらしい、最近の「東電
バッシング」のような雰囲気については、どうもついて行けない
ものを感じる。ツイッターを眺めていても、何かが変だという
気がして、最近は以前ほどにはTLを追わなくなってきた。


無論、これまでにも原子力発電所で事故が起きるたびにそれを
隠蔽してきた企業体質には根本的に問題があるし、そもそも
リスクを顧みずに原子力発電を推進してきたことが、現在の
状況を招いていることは言うまでもない。


しかし、自分自身も含めて、いったいどれだけの人が原発
リスクについて自覚してきたのか。何度も危うい事故が原発
起き、その情報が隠蔽されてきたとき、どれだけの人がきちんと
異を唱えてきたのか。


使いたい放題電気を使い、真夜中でも煌々と明るい都会で
暮らしながら、その電力がどこからどのように供給されている
のか、ということを忘れていた人間が、いざ原発で問題が生じ、
放射線による被害が切実になると、原発を運営している会社を
責め立てる。


たしかに報道その他で伝え聞く限り、東電の対応は今回も非常に
まずい。しかし、これは今回に始まったことではない以上、
問われるのはむしろ、われわれがこのような会社に電力供給を
一任し、そのあり方について何らかの疑問を呈するどころか、
むしろ日常的には、電気がどこからどのように来るのかなんて、
想像もしていなかったことではないのか。


最近思い出すのは、子供の頃、父親がプリプリ怒りながら家中の
電灯を消して回っていたこと。


「電気はタダじゃない」と言っていたのは、ケチケチと月々の
電気代を押さえようというのではなく、電力需要がどんどん
膨れあがっていくことへの危機感だったのかと、今さらながらに
思い当たる。


発電所の中央操作室で長年働き、電力消費の推移を数字で見つめ
ながら、いかに人間がだらだらと電気を使って暮らしているか、
という現実を見つめながら、一方で足りなくなるのが目に見えている
電力供給を補填するために、反対論を押さえつけてプルサーマル
原発増設だという方針を展開していたあの会社の中にいた父の眼に、
今の状況はいったいどのように見えているのだろうか。


少ししたら、実家に顔を出して、いろいろ話を聞いてみたい気が
する。


大学進学に伴って東京で暮らし始めてから20年、東京の夜が
こんなに暗いのは初めてだけれど、特に問題は感じないし
むしろ(こういう言い方は語弊があるけれど)落ち着く。


子供の頃を過ごした田舎では、駅前でも夜はこんな暗さだった。
外灯が間引きされた道路を歩くと、なんだか懐かしい感じさえ
する。高校からの帰り道、自転車を走らせた県道の外灯が間引き
されていたのは、稲の生育に配慮してのことだったけれど。


いろいろな人が言うように、今回の震災が1945年のような転回点に
なるのだとしたら、まず何より、これまでのようなエネルギーの
消費の仕方とは異なる生活が可能な社会設計が必要だろうと思う
(もちろん、時間がかかっても将来的には脱原発の実現は不可欠)。


でも、それはどうやって可能になるのか? よくわからない。
そんな思いを抱えながら、自分にできるのは、これまで通り文学研究者
としてものを考え、そのようにして考えたことを、教員として
学生たちの前で話すことでしかない。


ずっと研究の対象としてあり続けている坂口安吾1906年生まれ)という
作家は、1945年を39歳で迎えている。これは、いまの私とほとんど同じ
(たしか、ほぼ同年代の東浩紀氏も、以前ツイッターでそんなことを
つぶやいていた)。


1945年と2011年とでは、違うことの方が多いと思うけれど、39歳の安吾
あの状況を眺めながら何を考え、何を書いていたのか、ということを
読み込みながら、これまで通り研究をしていこうと思う。


みなが原発評論家になる必要はないし、東電を指弾する社会運動家になる
必要もないのだから。