days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

おおかみこども

日曜日の昼下がり、ちょっと家族に時間をもらって、ようやく『おおかみこどもの
雨と雪』(細田守監督)を観てきました。


先に一人でレイトショーで観てきた妻に、「まずは観ておいで」と言われたので、
一人、日曜日のシネコンに行ってきたのですが、劇場内は家族連ればかり。そんな
中で、涙腺すっかり緩んだ四十のオジサンは終始、ひとりで洟をすすることになり、
隣に座っていた小さな子が、「オジサン、どうしたの?」という目で見上げてくる
ので、ちょっと困ってしまいました(笑)。


さて、少しだけ感想を書いてみます。


雨と雪が、それぞれ違った形で母である花のもとを離れるまでのおよそ12年。
それが「あっという間」のことだったと語られた後、エンディングではスライド
ショーのようにいくつもの場面が映し出され、あの「おかあさんの唄」が流れる。
アン・サリーが歌うこの歌詞(細田守自身の作詞)も、そのまま物語のダイジェ
スト。


このエンドロールを観ていると、いかにこの物語が設定・内容・進行のレベルで
は特段の斬新さも仕掛けもないものだったか、ということがよくわかる。狼と人間
の異類婚という設定も、ファンタジーとして取り立てて斬新というわけでもないし、
後半になって何か秘密が明かされる、というようなプロット展開があるわけでも
ない。


それなのに画面に強く引きつけられたのは、この映画の細部に力が宿っていたから
なのかもしれない。宮崎駿アニメの飛行シーンとは対照的な、地を這うような
おおかみこどもの目線の疾走シーンとか、狼と人間のあいだをコロコロと変幻して
いく子どもたちの生き生きとした動きとか。


そして、タイトルとは少しズレるけれど、この物語はやはり、母親である花の物語
なのだろうと思う。すべてを背負い込んだ女性が大学を中退して、「おかあさん」
になっていく物語。


この構図はジェンダー論的に言ってどうなのか? というような批判を惹起するの
かもしれない(前作『サマーウォーズ』の大家族主義(?)が問題含みだったよう
に)。けれど、そういうPC的な「正しさ」を問うような水準とは別次元で、この
物語は「生きて在ること」への肯定として差し出されているように思えました。


人間と狼の間の境界線をめぐる問題は、ナショナリティエスニシティジェンダー
セクシュアリティ、「健康」/「病」「障碍」……といったことをめぐるさまざま
な境界線が生む問題ともつながっているようにも受け止められるし、一方でそういっ
た問題を一切抜きにして、子どもを育てるとはどういうことなのか、という根源的な
問題としても受け止められる。受け止めようによっては、「ありがち」な設定、
平板な物語進行であるにも拘わらず、この作品に人を強く惹きつけるのだとすれば、
それはそれだけこの作品に普遍的な力があるということなのかもしれません。


今回は息子を連れて行きませんでしたが(たぶん、おおかみこどもたちが動き回る
前半は集中して観て楽しむだろうけれど、後半部分まではまだ集中力が持たない)、
いずれ息子と一緒に見直したいな、と思います。また、ボロボロ泣いてしまって、
息子にバカにされそうですが(笑)。