days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

名前と連なり

何かに名前を連ねることへの違和について考える。



何かが主張されようとするとき、それが連名で行われると、その主張の内容そのものより、名前の並び方の方に目が行ってしまう。党派性と序列。連帯という名のもとの排除。


匿名で何かを主張するよりも、自らの属性を明示して主張する方が効果があると期待される場面がある。単独で何かを主張するのではなく、束になって発信するのでなければ、効果が期待されない、という場面もある。


けれど、連帯の身振りは必ず排除と表裏一体になる。ある属性のもとに何かを表明することは、結果としてそれを持たない者との連帯可能性を排除する。いつ頃からか、そんなことを考えるようになった。


自分もまた、大学とか学会とか研究会とか、そういった組織・団体・グループと無縁ではなく、そういったものの一員として生きている以上、その構成員が一覧化される場面では、自らの名前がそうしたリストの中に置かれる。そこに生ずる権利を行使し、義務を負うことで、自分の活動は担保されている。


学者とか研究者とか、そういった属性を持つ者には、社会的責任とか使命感とかいったものがつきまとう。それを否認するのは無責任だとも思う。しかし、そういった属性を持つ者にもそれぞれの個人的な日常生活があり、それは多種多様である。ある一つの属性のもとに連ねられた名前と共にある種の主張が提示されるときに生ずる違和感の一つには、そこに連なる個人の日常が見えないということがあるのかもしれない。


その連帯は本当に可能なのか、ということへの懐疑のない連帯の身ぶりはどこか空疎で宙に浮いて見える。その連帯にどれほどの意味と効果があるのか、ということについての内省のない呼びかけは、自己満足に終始する危険をはらむ。


そもそも人は、わざわざ連帯を呼びかけるまでもなく、集団性の中に絡め取られて個人の生活をおくっている。そういった個人の生活の中で接触する、自らとは異なる属性を持つ人たちとの対話や衝突を経た中で生ずる連帯ならば、そこには意義があるのかもしれない。そして、そのような関係性の中であれば、自分は「学者」とか「研究者」とか「教員」とかいった自らの属性を引き受け、その権利を行使し義務を担おうと思う。


けれど、学者同士、研究者同士が、その属性のもとに名前を連ねて何かを発信するという局面では、それに安易に乗ることはためらわれる。それは結局、そこに名前を連ねることで、自分が《自らの属性を「誠実に」引き受け、その「責任」を果たしている研究者である》ということを確認する自己満足の振る舞いに終始してはいないか? と考えてしまう。


ナイーブに過ぎる考え方かもしれないけれど、「表象とは何か」とか「公共性とは何か」とかいったことを考えないわけにはいかない人文系の研究者の端くれとして、このところ考えたところを記しておきます。