days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

沈黙の言葉

ちょっと捜しものがあって、HDDの中のファイルをいろいろと開いていたら、だいぶ前に書いた文章が出てきた。


これは、前の職場(学習院高等科)で文芸部の学生に、文化祭に合わせて発行する会誌に何か寄稿してほしいと求められて、大急ぎで書いたものだったと思う。


どういうことを考えながらこんな文章を書いたのか今となっては思い出せないけれど、珍しく詩について書いているのは、ちょうどそんな授業を「現代文」の時間にやっていたからなのかもしれない。


短い時間でラフに書いたものではあるけれど、記録として残しておこうと思い、貼り付けておくにする。

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教科書をめぐる雑感

「この教科書は、これからの日本を担う皆さんへの期待をこめ、税金によって無償で支給されています。大切に使いましょう。」


息子が年度初めに学校で受け取ってくる教科書には、このような文言が必ず入っている。


これについて、「国家や政府に感謝しろ」と言われているようで鬱陶しい、という趣旨のツイートをしたところ、何がどう間違ったのか、あちらこちらへとリツイートされて拡散、ちょっとした炎上(というほどでもないけれど)になった。


もちろん、共感のRTもあったのだろうけれど、そうでないものも多数あり、見ず知らずの匿名の方々から罵倒に近いリプライ(エアリプを含む)を頂戴した。


いわく、「どこにも「感謝しろ」とは書いていないのに、こいつ、妄想力(?)が強すぎる」だとか、「「国民の血税」でまかなわれているのだから大切にして当然」だとか、「教科書を大切にしなくてもいいとか言ってるこんなバカサヨが教壇に立っているなんて世も末だ」とか、正確には覚えていないけれど、まあいろいろと、皆さん好き勝手におっしゃっていた模様。


匿名性が許容されるSNSはどうしたってこういう罵倒の言葉が飛び交うのだし(普段は自分の構成したタイムラインの中にいるから見えないだけ)、そのこと自体には別に驚きもしないのだけれど、こういう罵倒の言葉を書く方々の暴力性の内実について想像力をめぐらせると、ちょっといたたまれない。


とにかく現状に不満があり、それが改善される見込みもない……、というような苛立ちの中にいて、誰かを攻撃しなければいられない、ということならまだマシな気がする(そういう行き場のない思いを受け止めるのも教員稼業の延長線上にある気はするし、まあ、そういうフラストレーションの実状をリアルに感じ取るということは、研究者稼業をやっていく上で大事なことでもあろうから)。


しかし、ぼんやりツイッターを眺めていると、むしろ以下のように思えた。


罵倒の言葉を書く人のうち、少なからぬ人々はもしかすると、別に自分の日常について、特に不満を募らせているわけでもないのではないか。ただ何となく(それこそ、部屋の中に入り込んでしまった小さな蠅を追い回して叩き潰してゴミ箱に捨てるかのように)、とてもカジュアルにその場のノリで「どこかのだれか」に罵倒の言葉をぶつけ、そのこと自体、数日後には忘れているのではないだろうか(こういうことを書いているとまた、「妄想力が強すぎる」というお叱りを受けるのかもしれないが)。


新自由主義的な改革が広く行き渡ったいまの日本で生活していて、何不自由ない裕福な生活を送ることができている(そのような生活を保障してくれる雇用と収入、諸々の社会福祉などを手に入れている)人はごく限られていると思うのだけれど、世の中を眺めていても、人はそういう日常については疑問を感じず、批判意識を持っていないように見える。


むしろ、そういう批判を語ると端的に言って周囲から「浮いて」しまうし、すぐに「サヨク」という蔑称を頂戴することになる。いわく、自分たちは十分に「お国」に守られているのであって、そのような中でヘンテコな違和感を表明する人(「サヨク」?)は「なんかキモイ」、ということになってしまう。


なんでもかんでも噛みついていればいいと思っているのか? そんな風にネガティブなことばかり言ってて楽しいの? 文句ばっかり言っていないでもっと感謝の気持ちをもって素直に生きようよ、云々。 


しかし、話を教科書の話に戻すと、ここはやはり違和感を覚えておく必要があるところではないのか。


よくよく考えてみてほしいのだ。


なぜ、ここにはシンプルに「教科書は大切に使いましょう」とだけ書かれてはいないのか。なぜ、教科書の使用者である子どもに向けて、「これからの日本を担う…」という言葉を添えるのか。なぜわざわざ「税金」という財源について書くのか。


ツイッターで頂戴した罵倒の中には「こいつ、教員のくせに教科書を大事にしなくていいと思ってるのか?」というものもあったけれど、それこそ私は「そんなことどこにも書いていない」。


無論私だって教員の端くれなので、教科書を大事にしなくてよいなどとは思っていない。まあ、多少は落書きくらいしたってよいとは思うけれど、とにかく手に取って何度も読んでほしい(せめて眺めてほしい)と思う。


思えば、高校の国語教員をやっていた頃は毎年、教科書の見本を何度も何度も手にとって「どれにしようかな」と考え込んで選んでいた。大学で教えるようになってからも、シラバスを書くときにはいつも、学生の皆さんになにを読んでもらおうか、どんな本を手にとってもらおうか、と何日も何日も考え込む。


でもそれは、その教科書の「内容を大切にしてほしい」と思うからこそのことであり(この場合、教科書の内容について「批判」することも含む。ちゃんと読まなければ批判などできないのだから)、誰がその教科書の「代金を払う」のか、それは実際のところいくらかかっているのか、というようなことは、ここでは主要な問題ではない(もちろん、昨今の大学生は決して裕福ではないので、単価の高い書籍を教科書にすることはためらわれるのだが)。


だいたい、子どもに向けて「誰が金を払っていると思ってるんだ!」などいう言葉をぶつけるのは、まったくもって教育的ではないと思うのだが、そのあたりについて、人はどう考えているのだろうか?


たとえば、「食べ物を粗末にしてはいけません」と小さな子どもに教えるとき、人は「誰が金を払って買ってやったと思ってるんだ!」と教えるだろうか? そうではなく、「生産者が丹精を込めて作ったものなのだから大切にいただこう」とか「他の生き物のいのちをいただくのだから粗末にしてはいけない」とか教えるのではないか?


冒頭に引用した教科書の文言は、私にはあたかも次のように見えた、ということである。


「オレ様が金を払ってお前にくれてやるのだから、ありがたく受け取って大事にしろよ。これは、お前がしっかり学んでゆくゆくはオレ様の老後の面倒を見てもらうためにくれてやるんだからな。そのつもりでしっかり勉学に励めよ。」


だいたい、「大切に使いましょう」という言い方は「使い方」(落書きするなよ、あんまり汚すなよ云々)のことばかり言っていて、この本の中身については注意を喚起していない。そもそも、それってどうなの? ということもある。


ツイッターで以上のようなことまで書いていたら、さらに「炎上」していたのかもしれないけれど、それは面倒なのでやめておいた。


それにしても、ツイッターというのは、こういう冗談をぼそぼそっと呟くメディアだと思っていたのだけれど、最近はどうもそうではないらしい。緩慢にリツイートが続き、その度に無責任で暴力的な匿名アカウントのリプライが目には入ってくるのは愉快なことではないので、ツイッターは当面の間は非公開にし、積極的な発信もやめることにした(というか、楽しくないので、あまり触る気がしない)。


いろいろ息苦しい世の中になったものですね……。

謹賀新年2015


元旦の空(息子撮影@実家付近)


新年明けましておめでとうございます。


昨年までは前厄、本厄、後厄と続きましたが、幸いとてつもない厄災は経験せずに済みました(細かく数え上げればいろいろあったと思いますが、もう忘れたことにします……)。


厄が明ける今年は、これまでよりもう少し研究活動のテンションを上げて行きたいと思っています(…が、果たしてそんな時間を確保できるのか?)


それにしても、前の職場(高校)の卒業生たちから「社会人×年目に突入です」というような年賀状を頂戴すると、さすがに自分の歩みの遅さに思い至って、なんだか凹みます。


……じっさい、教師くらい妬みの虫にとりつかれた存在も珍しい……生徒たちは、年々、川の水のように自分たちを乗りこえ、流れ去って行くのに、その流れの底で、教師だけが、深く埋もれた石のように、いつも取り残されていなければならないのだ。希望は他人に語るものであっても、自分で夢みるものではない。彼等は、自分をぼろ屑のようだと感じ、孤独な自虐趣味におちいるか、さもなければ、他人の無軌道を告発しつづける、疑い深い有徳の士になりはてる。勝手な行動を憎まずにはいられなくなるのだ。……(安部公房砂の女』より)


こんな寂しい「教師」で終わることのないよう、ずっと現役「研究者」でもあり続けよう、という思いを新たにする新年なのでした(無論、「教師」であることを投げ出そうなどとは考えておりませんが)。


文学研究(を含む人文学全般)をめぐる環境は風当たりが強くなる一方だし、現在の職を得ている国立大学の状況も「改革」の名の下に何処へ向かうのかまったくわからない状況が続く。だからこそ、「孤独な自虐趣味におちいる」ことなく、ただの「疑い深い有徳の士」に終わることもなく、なすべきことをなさねばならない、と思っています。


というわけで、本年もどうぞよろしくお願いします。



冬の風景(息子撮影@実家付近の公園)



珍しくサッカーをする息子8歳(ふだんは専らインドア系)

フィクションについての雑感

フィクションとは何か? という、文学研究者にとっては最も根源的な問いでありながら、ともすればきちんと考えることをなおざりにしがちな問題に関する研究会に混ぜてもらって、末席からお話を拝聴してきました。


本当はお話拝聴だけではなくきちんと積極的に関わらなくてはいけないわけですが、このところの緩みきった脳ミソの有り様では、いかんともし難く、これではいけないなあ、と危機感を覚えつつ、いろいろ刺激をもらってきました。

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空白のグルーヴ(2014.10.09 ちょっと修正)

いまよりもう少しまじめに音楽をやっていた学生の頃、「タイム感」の良し悪し、ということをよく言われた。音楽をやらない人には耳慣れない言葉だと思うし、ちょっと説明しにくい言葉なのだけれど、あえて言えば、一定のテンポを自然に保ち続ける感覚、といったところだろうか。


言い方を変えれば、音符の長さが恣意的に長くなったり短くなったりしないように維持し続ける力、ということであり、この力がないと音楽がとてもギクシャクしてしまう。

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最近の仕事(2014年6月分)

防空と空襲(コレクション・モダン都市文化 第100巻)』
(2014年6月、ゆまに書房


田辺平学『空と国 防空見学・欧米紀行』(一九四三年、相模書房)および神宮寺晃『姿なき空襲』(一九四三年、新泉社)の二冊を写真版で収録したシリーズ最終巻の解題、関連年表と巻末エッセイを担当。


『空と国』は対米英開戦直前にヨーロッパ視察を行った防空建築の専門家による紀行文。往路はシベリア鉄道で渡欧、刻々と国際情勢が緊迫する中で視察を行い、復路はアメリカ〜ハワイ経由で帰国すると間もなく真珠湾攻撃、という、何ともスリリングな旅の記録。


『姿なき空襲』は上海を舞台とした防空スパイ小説(?)とでも呼ぶべき奇妙な小説で、「空襲」と題しながら実際の空襲は描かれない。文字通り「姿なき」空襲をめぐる情報戦を扱った興味深い小説で、作者の「神宮寺晃」が何者なのか、結局わからないままになってしまったのが心残り…。