days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

空白のグルーヴ(2014.10.09 ちょっと修正)

いまよりもう少しまじめに音楽をやっていた学生の頃、「タイム感」の良し悪し、ということをよく言われた。音楽をやらない人には耳慣れない言葉だと思うし、ちょっと説明しにくい言葉なのだけれど、あえて言えば、一定のテンポを自然に保ち続ける感覚、といったところだろうか。


言い方を変えれば、音符の長さが恣意的に長くなったり短くなったりしないように維持し続ける力、ということであり、この力がないと音楽がとてもギクシャクしてしまう。


たとえばメトロノームを使ってあるテンポを出し、それと一緒に手を叩く。途中でメトロノームを止めても同じテンポをずっと維持できるかどうか。簡単なようで、これは決して簡単ではない。


まして、メトロノームに合わせて裏拍を叩き始め、メトロノームを止めてからも裏拍だけを叩き続ける、ということをやろうとすれば、これはかなり難しいのだけれど、こういうのを意識せずにキープし続けることができる状態というのが、「タイム感」がある、ということ(意識せずに、というのがポイントで、意識してやろうとすれば、途端にギクシャクして崩れてしまう)。


では、どうしたら気持ちよくテンポを保てるのか? どうしたら、テンポが恣意的に伸び縮みするのを避けられるのか? 正解は、ちゃんと休符=空白部分を空白として空けることだ――というのが、かつて教わったこと。


例えば、4/4拍子の曲で、1拍目から付点二分音符でのばす(3拍のばす)という場面なら、4拍目の休符をきちんと正確に休む(空白にする)ことに気を配れば、次の小節の1拍目の位置はブレない。そして、それを実行するためには、3拍目を切る位置を正確にすればいい。


付点二分音符=長く延ばす、とボンヤリ考えて演奏してしまえば、必然的に4拍目=休符の位置を見失い、次の1拍目の位置もブレてしまう。これがつまり、テンポが恣意的に伸び縮みしてしまう状態。


要するに何がいいたいのかというと、「空白を空白としてきちんと機能させる」ことによってこそ、テンポは維持される(これが、「タイム感」がある、という状態)ということである。


そして、この感覚は音楽に限った話ではない。例えば、文学テクストについて考える場合でも、こうした発想は重要である。


文学テクストを解釈する(分析する)という場合、ともすると人は目を皿のようにして、そこに「何が書かれているか」を見逃すまいと必死に睨みつけることになりがちである。


しかし、言うまでもなく、言葉によって何かを書くということは、何かを「書かない」(書けない)という判断と裏表の関係にある。そうだとすれば、文学テクストにもまた、音符と休符のようにonとoffから構成された「リズム」がある。文学テクストを「読む」上で大切なのは、このリズムにのりつづける「タイム感」なのではないか?


だから、文学テクストを正確に「読む」ために欠かせないのは、そこには何が「書かれていない」のか、ということについても自覚的になるということだろう。


文学テクストを綿密に読み込みことを俗に「行間を読む」などというけれど、これは正しい言い方ではない。正確には、行間は「読んではいけない」のであって、それはきちんと「空白」として空けておかなければならない。


音楽であれ文学であれ、それを「気持ちよく」楽しむには、空白を空白として空けるセンスが求められる。それがきちんとできれば、そこには気持ちいいグルーヴ(ノリ)が生まれる。


無論これは、音楽や文学に限った話ではない。何であれ物事にはリズムというものがあり、それは適切な空白を確保することによって維持される。


だから、とにかく半年間にギッチリ15回授業をやらなくてはならぬ、毎回きっちり予習復習をしなくてはならぬ、などという昨今の大学教育は、言ってみれば「とにかくずっと音を延ばしとけ!」というような、なんとも無粋な指示に思える。


これでは、学ぶことの快楽=リズムに乗ることなどできるはずがないではないか。(あれ? 話が飛んだ? まあ、気にしない気にしない)