days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

フィクションについての雑感

フィクションとは何か? という、文学研究者にとっては最も根源的な問いでありながら、ともすればきちんと考えることをなおざりにしがちな問題に関する研究会に混ぜてもらって、末席からお話を拝聴してきました。


本当はお話拝聴だけではなくきちんと積極的に関わらなくてはいけないわけですが、このところの緩みきった脳ミソの有り様では、いかんともし難く、これではいけないなあ、と危機感を覚えつつ、いろいろ刺激をもらってきました。


フィクションをフィクションたらしめる条件、フィクションの徴(マーカー)といったものの存在を、テクスト内在的に説明できるのか? それともフィクションのフィクションたるゆえんは、テクスト外の条件に依存する形で説明しないと規定できないのか? 容易に結論の出る問題ではないけれど、文学を「研究」する以上、こうした問題は避けて通れない。


今回は分析哲学の立場から、「フィクションとは何か」ということを原理的に考察する本を読むということで、このところずっと「理論」について考えることから逃避気味だった私のような者にはなかなかベビーだったし、気の利いたことの一つも言えないもどかしさを久々に味わいもしましたが、何もアウトプットしないままではまずいと思うので、少しだけ素朴なメモを書いておこうと思います。


読書会形式の研究会で扱ったのは、清塚邦彦『フィクションの哲学』(2009年12月、勁草書房)という本。


丁寧に「フィクションとは何か」という問いに対する諸説を概観しながら議論が展開される明晰な本であり、また、フィクションの問題を狭義の文学=文字テクストに限定せず、演劇、映画、さらには絵画や写真まで視野に収めた本で、色々と勉強になったわけですが、個人的に関心を覚えたのは、ケンダル・ウォルトンのごっこ遊び理論(Make-Believe Theory)を踏まえつつ、フィクションの生成・成立の条件を、真ならざるものを真とみなす(ごっこ遊びが安定的に成立する)までに至る受容者の認識プロセスとして説明していた部分。

たとえば、町外れの松山でよく見かける枯木の切り株を見て、その独特の形状からクマのことを思い浮かべる、といった場合を考えてみよう。この場合、クマを思い浮かべるというのは、たんに、クマについてのさまざまな想像が切り株の知覚をきっかけに促されただけであることもあれば、そうではなしに、目の前の当の切り株があたかもクマであるかのように想像されるという場合もある。[…]ウォルトンの用語では、前者の場合には切り株はたんにクマについての想像のプロンプター(引用者注、想像を促すもの)だが、後者の場合には、クマについての想像のプロンプターであると同時に、その想像の対象にもなっている。[…]フィクションの内容の理解と関連するのは、たんに作品が促す想像ではなく、作品を対象とする想像である。清塚邦彦『フィクションの哲学』142頁)


つまり、切り株の形状をきっかけに、切り株をクマに見立てた「ごっこ遊び」を始めたとすれば、その遊びの中で、切り株=クマという想像は「事物それ自体の形状とごっこ遊びの規則とによって、指定されている。 (太字部分は原文では傍点、以下同様。)


そして、こうした切り株=「小道具(props)」は当然、社会の中でのコンテクストによって規定されている。


そうだとすれば、フィクションとは、社会的なコンテクストの中に生きている受容者が、一定の「小道具」をきっかけに展開する想像力によって「ごっこ遊び」に参入するときに成立する、ということになる。


同書の中で言及されていたフィクションの関する諸説の中で、この説明は相対的に飲み込みやすいものだったのだが、しかし、若干のひっかかりを覚える部分もあった。


読書会の場ではそのひっかかりをうまく言語化できないままにしてしまったのだが、以下、帰る道すがらに考えたことを記してみる。


「ごっこ遊び」という捉え方からふと思い出したのは、自分自身の幼少期について親から聞かされていた話。私もまた、小さいときには「ごっこ遊び」をして遊んでいたわけだが、そのやり方がちょっと変だった、という。しばしば笑い話の種にされる、その「ごっこ遊び」の内容は次のようなもの。


例えばダイニングテーブルの上に、目覚まし時計を一つのせる。これは何らかの「スイッチ」に見立てた「小道具」というわけだが、このあと何が始まるかといえば、私はその「スイッチ」を押すと、ただそのまわりを延々とぐるぐる回り続けるのだという。


怪訝に思った親が、何をしているのかと尋ねると、「せんたくきごっこ」だと答えるらしい。自分が洗濯機になったつもりで、ひとりでぐるぐる回っているだけ。何が楽しいのか、脇で見ている大人にはまったく理解できない。


そうかと思えば、今度は輪投げの輪か何かをテーブルの上に置き、また「スイッチ」を押してぐるぐる回る。これは「れこーどごっこ」(レコードプレイヤーの真似)だという。きっとテーブルの上に置いた輪はシングルレコード(ドーナツ盤)をかけるときのアダプターの「小道具」なのだろうけれど、いよいよ意味不明…。


こういう話を聞かされると、自分という人間は昔も今も何かがズレているのかと考え込んでしまうが、それはおいておいて、いまここで考えておきたいのは、こういうタイプの「ごっこ遊び」とは何だろうか、ということ。


たしかに、この場合にも「小道具」(プロンプター)は存在していて、それをきっかけに「ごっこ遊び」=フィクションがスタートしているのかもしれない。しかし、これは「切り株」からクマを想像し、「クマ」(対象物)と自分、という二者関係から始まられるフィクションではない。そうではなく、これは自分自身が対象物(洗濯機、レコードプレイヤー)になる、というフィクションである。


なぜこんな話を考えたのかと言えば、ウォルトン/清塚が例示する切り株に関する見立ての話を読んだとき、うちの息子だったら、〈いま・ここ〉にはいない(しかし、知識としては知っている)「クマについてのさまざまな想像」をめぐらせるのでもなく、「目の前の当の切り株があたかもクマであるかのように想像」して、〈いま・ここ〉にある切り株=クマに話しかけるのでもなく、おもむろに切り株=クマの形状を自分が真似して、自分はクマである、という「ごっこ遊び」を一人で始めるのだろうな、と思って、一人で吹き出しそうになったからである(子どもの頃の私がどこかズレていたのと同様、息子もたぶん何かがズレているのかもしれない)。


しかし、本当は別に私も息子も変人ではなく、ただの平凡な人間である。そして、息子や子どもの頃の私がやる(やった)ような「ごっこ遊び」こそ、実はフィクションの入口なのではないか、という気がしてくるのである。


たとえば、小さいな子どもは物語を読むとき(聞くとき)、あたかも自分自身が主人公であるかのようにワクワク・ドキドキしながら物語を受容する。フィクション受容の起源にあるのは、こうした「自分自身がフィクションを生きてしまう」経験であり、それは対象物と自分という二者関係の中で諸々の〈お約束〉に従って遊ぶ「ごっこ遊び」(ロールプレイ)に先立つものではないだろうか。


そして、成長とともに人は、「これはフィクションであって、現実ではない」(これは物語=「おはなし」であって、自分のことではない)という距離感を獲得し、現実世界におけるフィクションの(より穏当な)受容の形を学ぶ。


そうだとすると、学校の「国語」の時間に「登場人物の心情を考える」というような課題を繰り返すことには、どのような意味があるのだろうか。少なくとも、登場人物と自分自身(読者)との距離をゼロに戻していくような作業になってしまうなら、それはむしろフィクションについて「学ぶ」ことにはならないのではないか。


そうではなく、フィクションと自分との距離をきちんと考えさせるためにこそ「登場人物の心情を考える」という課題は行われなければならないのだとすれば、これは教えることも学ぶことも、なかなか難しい(しかしやりがいのある)課題ということになる。そんなことを「教育者」は果たしてきちんとできているのだろうか?


ちなみに、清塚氏の本ではしばしば、フィクションについて考えるための例として三島由紀夫の『仮面の告白』が取り上げられる。言及されているのは多くの場合、よく知られたあの冒頭部分(「永いあいだ、私は自分が生れたときの光景を見たことがあると言い張っていた。」)ばかりなのだが、以上に記したようなことを考える私からすれば、同じ『仮面の告白』の中の、次のような部分こそが問題となるように思われる。

 私はこの世にひりつくような或る種の欲望があるのを予感した。汚れた若者の姿を見上げながら、『私が彼になりたい』とい欲求、『私が彼でありたい』という欲求が私をしめつけた。(三島由紀夫仮面の告白』第一章)


つまり、この「私」は、「私」ならざる「彼」になりたい/でありたい、というフィクションを冀いながら(というより、自分自身の存在ををフィクションと化してしまい、そのフィクションを生きたいと願いながら)、とうとうそれを実現することができないままであった、という挫折を一貫して「告白」しているのではなかったか。



……他にもいろいろ考えたことがあるような気がしますが、とりあえずこの辺りで。


「フィクション」とは何か、という問いから、いろいろな思考が始まりそうですが、ともかく、文学を研究する/教えるという場に立つ人間は、やはり根本的に「フィクション」とは何かということを考えなくてはならない――そんな当たり前のことを、このところきちんと考えていなかったのではないか、と大いに反省させられた読書会なのでした。


〔付記〕ちなみに、いま改めて「あとがき」を読んだら、この本の担当編集者は同じ大学の後輩なのでした。良い仕事をしてますね。私もちゃんと仕事をしなくては、と思った次第。