days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

8月30日に

家族で外出していた日曜日。


16時を少し過ぎた頃に、桜田門駅から国会前に向かってみた。この夏、これまでにも何度か足を運んでいたが、今回は初の家族連れ。昼間には用事があったということもあるけれど、安全確保の問題も考え、ピークが過ぎているであろう時間帯に向かうことにした。


大挙して駅の方へ引き上げてくる人波(年配の方々が圧倒的に多かった印象)に逆行して坂道を上り、横断歩道を渡って国会前の通りに出る。


すると、目の前は歩行者天国のような見慣れない光景になっていた。狭い歩道にデモ参加者が押し込まれている、いつものあの風景とは明らかに違っている(昼間に起こった「決壊」の光景については、後からネット上の動画で知った)。


あちらこちらで散発的にコールがあがり、打楽器の音が鳴り響く。普段は人混みが大嫌いな息子(9歳)だが、彼なりに何かを感じ取ったようで、どんどん前に進む(もともと打楽器が大好きではあるのだが)。そして、私のスマホを借り受けて、動画撮影を始める(取材ごっこ?)。


この光景が何を意味するのか、ということについては、道々なるべく平易に説明をしておいたものの、何をどこまで理解したのか、定かではない部分もある。


しかし、こういうことが起こっていた、ということを体感し、記憶しておいてもらいたい、というこちらの意図は十分に伝わったようにも見えた。


少なくとも、いつもなら人混みを見ただけで尻込みし、すぐに「帰ろう」という息子が、この日だけは自ら群衆の中に進んでいって、目を見開いていたから。


当初は、ほんの少しの「見学」でもいいかな、と思っていたが、気がつくと国会議事堂の目の前、デモ隊最前列まで来ていた。


一方的にイデオロギーを注入するようなことはしたくないけれど、息子には、大事なことは自分の目で見て、自分の肌で感じて、自分の頭で考えるヤツであってほしいと思っている。


文章表現と規範

本務校で例年開講している「普遍教育」(いわゆる一般教養)の授業で、今年は「国語」教科書の中の文学作品を再読してみよう(ただし、文学研究の視点から)、というような講義をしてみた。 扱った作品は『舞姫』『こころ』から始めて、『走れメロス』『夏の花』まで(最後には『いちご同盟』と『四月は君の嘘』を絡めて話すというおまけ付き)。


時間割設定上の問題があって、文学部の学生はほとんど受講しない(できない)という状況になってしまったので、受講生は例年より少なめ(20名前後?)と予想していたのに、いざ講義室に出向いてみると、廊下や階段にまで受講希望者が溢れかえっている状態。


結局、受講者数は120名くらいになり、しかも授業終盤まで出席者はあまり減らない。コメントシートには毎回、アツいコメントがぎっしり書き込まれてくる。いろいろ想定外の事態だったけれど、どうも皆、「教科書」というメディアや、かつて受けた「国語」の授業というものについて、それぞれに密度の高い記憶を持っているのだということがうかがわれた。


そして、学期末。成績評価のための課題ということで、ある教科書掲載作品について、自分なりの視点で論じてみてほしい(どのように論じるのか、というやり方については、これまでの講義内容を参考にしてほしい)という、ざっくりとした課題を出すことにした(事前に作品は告知し、十分に下準備をした上で、試験当日に答案用紙へ書き込んでもらうというスタイル)。これまでの講義内容へのレスポンスと、授業中の雰囲気から考えて、興味深い答案も少なからず出てくるだろう、という期待もあった。


実際、試験時間めいいっぱいを使って、答案用紙をぎっしり文字で埋めた答案も多数あり、採点は大変だけれど、興味深い答案もあるだろうから楽しみだな、などとお気楽に考えていた。


しかし、である。


いざ答案を読み始めてみると、多くの答案が判で押したように同じようなパターンで書かれている。内容が何かのパクりである、というのとは違う意味において、どれもこれも似通っているのである。


まずは物語のあらすじを示し、それを読んだ自分の「感想」(それも、倫理的に「正しい」、とても優等生的なもの)を記し、自分自身の体験や日常生活と引き合わせてみた上で、「勉強になった」「感動した」「これから自分も、この物語を踏まえて前向きに生きていきたい」云々といった文言が並ぶ…。これは明らかに、いわゆる「読書感想文」の定型そのものである。


普段の講義後に記すレスポンスカードで、《「国語」の時間には気づかなかった(考えもしなかった)ような文学作品の捉え方はとても興味深かった》、《「国語」の時間での文学の読解は、お約束(型)の確認・反復でしかなく、だから退屈したのかもしれない》といったことをアツく書いてくれていた受講者たちが、いざまとまった長さの文章で文学作品を「論じる」ということをやってみると、いかにも「国語」の時間的な「読書感想文」のフォーマットで書いてしまう…。うーん、と頭を抱えてしまった。


もちろん、非はこちらにある。少なくとも、「読書感想文」を書かれても困ります! ということを、はっきり伝えてはいなかったのだから。


これが自分の所属する専門課程の1年生向け導入教育であれば、最低限のアカデミック・ライティングの作法は教えるし、実際そこで私は毎年、「レポート」と「読書感想文」の違いということについて話をしている。


しかし、今回は一般教養の授業でもあり、なおかつ、わざわざ専門外である文学関係の授業を履修し、休まず参加して大まじめにコメントカードを書いてくれる皆さんがお相手ということで、完全に油断していた。「読書感想文」の呪縛、恐るべしである。


……というわけで、いろいろと反省しながら採点業務をこなしていたわけだけれど、そんなある日、せっせと夏休みの宿題に励む息子(小3)の持っていたプリントを見て、のけぞった。


それは、穴埋め式で「読書感想文」を完成させるいわゆる「テンプレート」だった。そして、その内容はまさしく、自分がせっせと採点していた答案の山に共通する型そのものだった。


「いまどきはこんなものがあるのか!」という驚きと共に、そのことをツイッターに書いてみた。同様に驚いた人は多かったようで、リツイートは4000件を越えていった。テンプレートを作って配布することの是非、それを使用させることの是非ということをめぐって、アツい議論が繰り広げられるのを、興味深く眺めさせていただいた。


いま、私自身の思うところを改めて記しておけば、以下のようになる。


文章表現の教育におけるテンプレート(型)の存在そのものを否定する気は毛頭ない。社会生活の中で、テンプレート通りの業務文書なりお手紙なりを読んだり書いたりする場面というのは山ほどあるのだから、これをきちんと使いこなすリテラシーというのは、当然必要である。


むしろ問題は、「型」についてきちんと教えないまま、「自分の見たまま」「感じたまま」を「自分の言葉」で書きなさい、などと言い放つ側の無責任さにある。「読書感想文」を書きなさい、と指示する教員は、「こういうものを期待しているのですよ」という「型」を予めきちんと明示するべきだろう。


実は、こうした「型」の存在については、読書感想文コンクールの入賞作をいくつか読んでみればすぐにわかる。しかし、おそらく「読書感想文」を書かせる側は、こうした「型」を明示することはしない。それでは、その子ならではの〈オリジナル〉な感想が表出されない、ということになるから。そして、多くの子どもが原稿用紙を前にして頭を抱えることになる。


「型」があるのにその存在を明示せず、隠微な形で同調を迫る。これは、悪しき意味での伝統的な「国語」の時間の作法そのものである。(「優等生」だった人を除けば)誰しもこのお作法に、多かれ少なかれ苦い思いをさせられたからこそ、「国語」教科書の文学作品を読みかえてしまおう、という授業に受講者が集まるし、読書感想文をめぐるツイートが盛り上がる。


今回改めて思ったことは、制度(イベント?)としての「読書感想文」なんてもうやめましょうよ、ということであった。こんなもの、夏休みのラジオ体操以上に意味がないのではないだろうか?


「読書感想文」テンプレートによれば、本を読んだら必ず肯定的な感想(「感動」!)を抱かねばならず、それを自分自身の日常生活に一度は引きつけた上で、今後の人生を前向きに生きなければならない。そんな空疎な言葉を型どおりに並べるために本を読む必要など、まったくないのではないか?


本を読めばだれでも何かしら「感想」らしきに何かを抱く。「この本を読んでも何にひとつ感じ取ることがなかった」、ということでさえ、ひとつの「感想」である。何も「感動」することだけが「感想」ではない。


これは「読書感想文」と「(大学における)レポート」の違いとして初年次教育の授業でよく話すことでもあるが、重要なのは漠然たる「感想」(面白かった、つまらなかった、ということ)を抱いておしまいにするのではなく、そこで「なぜ?」ということを考えることである。


なぜ自分はこの本を「面白い」「つまらない」と感じたのか? 具体的に「どこ」が面白かった(つまらなかった)のか? そのような自分の感想は一般的なものなのか特殊なものなのか? その一般性/特殊性を支える条件(国籍、民族性、歴史性、社会状況、ジェンダー等々)とは何か? ……と思考していけば、そして、それをロジカルに論述しようとすれば、それは「読書感想文」とはまったく異なるものとなる。


もちろん、こうした思考の深め方と、その思考に関する叙述方法にも「型」がある。そして、少し極論めいた言い方をすれば、こうした「型」を教えることが、(人文系の)教員にできるほとんど唯一のことなのではないか、と私は考えている。

シンポジウム(2015.07.23 @千葉大学)の後に

今日のシンポジウムには、学部生、大学院生、卒業生、現職教員、教員OB、さらには様々な立場の市民まで、多くの方々が参加していたようです(大幅に時間を延長してもなお、手が上がり続ける状況でした)。


私自身は、もともと大した話を用意していったわけでもなかったのですが、それでも、会場の人数と熱気を感じて、なるべく多くの来場者の方に発言してもらえるといいな、と思って、一応は用意していったメモも見ずに、ごく簡単な話をして、用意していった坂口安吾の言葉を読み上げる、ということにとどめました。


ただ、自分としてはあまり内容のある話をできなかったかな、という気もして、ちょっとだけ心残り、という感じがあるのも事実。


……というわけで、一応用意していたメモを元に、シンポの場で大幅に端折った内容を復元(?)し、さらにいろいろと書き加えたものを、ここに残しておくことにします。


大した内容ではないけれど、一つの記録として。

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緊急シンポジウムのお知らせ


千葉大学内で「安全保障関連法案」について考える緊急シンポジウムを開催することになりました。


 日時:7月23日(木)17時45分〜19時
 会場:総合校舎C-12


趣旨説明、何名かの研究者からの発言の後、ご来場の皆さんでのフリートークということになるようです。


学内の教職員、研究者、学生の皆さんはもちろん、学外の市民の方のご参加も歓迎とのことです。


文学研究とドーナツの穴

大学の文学部は「文学」を学ぶ(だけの)場ではない。文学部とは「文」(=人文学)について学ぶ、すなわち「言葉」で語られ/記された知について学ぶ場である。


その意味で、わかりやすく単純化して言ってしまえば、文学部とは「リテラシー」を鍛える場である、とさしあたり言えるのかもしれない。


しかし、それは単に「書いてある」ことを正しく読みとる能力を鍛える、ということでもなければ、効率よく伝えたいことを伝える能力を鍛える、ということでもない。


その意味で、文学部で学ぶこととは、中等教育における「国語」の時間や「外国語(英語)」の時間とは異なる。しかし、それはどのように異なるのか? 


私自身は「文学」の研究者なので、以下、「文」=人文学について学ぶことの〈具体例〉として、「文学」を「研究」するとはどういうことか? ということについて、お話ししてみたい。


まず初めに考えてみてほしいのは、一つのたとえ話。


皆さん、「ドーナツ」というお菓子を頭に思い浮かべてほしい。それは、どのようなものなのか? 味、食感、形状、作り方、売っているお店、などなど……。



wikipedia「ドーナツ」の項より



形状としては、皆さんだいたい、このようなものを思い浮かべたのではないだろうか。


もっとも、辞書的な定義としては


「洋菓子の一種。小麦粉に砂糖、ベーキングパウダー、鶏卵、牛乳、バターなどを混ぜてこね、輪形やボール形に作って油で揚げたもの。」(『日本国語大辞典』)
「小麦粉に砂糖・卵・牛乳・ベーキングパウダーなどをまぜてこね、輪形などにして油で揚げた洋菓子。」(『大辞泉』)


…とあって、必ずしも輪形(真ん中に穴が空いている)とは限らない、という説明もあるわけだが、おおかたの人は、このようなリングを思い浮かべるのではないだろうか。


ここでちょっと考えてみてほしいのは、このリング形の真ん中にぽっかりとあいた穴のことである。


ドーナツがこのような形であるのは、もしかすると、油で揚げるときに火が通りやすいように、というような意味があるのかもしれないし、それとは違う理由があるのかもしれないが、そうした問題はさし当たり措く。


いま考えたいのは、人が「ドーナツ」いうものを思い浮かべるとき、そのイメージの中に、「穴」=空白が含み込まれている、ということについてである。


たとえば、小さい子に「ドーナツ買って〜!」とねだられた時、大人がドーナツを買ってやり、しかも食べやすいように、と予めバラバラにちぎって与えたとしたら、その子は「こんなの、ドーナツじゃない〜!!」と言いって泣いて怒るのではないか?


つまり、ドーナツというものは実は、食べる部分と、食べられない「穴」の部分とのセットで、はじめて「ドーナツ」として成立しているのではないだろうか?


少なくとも、子どもにとって目の前にある揚げ菓子が「ドーナツ」たり得るためには、食べられない(味もしないし、そもそも手につかむこともできない)この穴=空白が不可欠だ、ということである。


このような話のどこが「文学」(の研究)と関係するのか、そろそろ怪訝に思いはじめただろうか。


しかし、私がここでお話ししたいのは、まさしくこの「ドーナツ」の話こそ、「研究」対象としての「文学」そのものだ、ということである。


これはいったいどういういことか?


普通、人は「文学」作品を読んで、「面白かったー!」とか、「つまらなかったー!」とか、それぞれにいろいろな感想を持つ。それ自体は、真っ当な反応であり、何ら問題はない。


それはいわば、ドーナツを食べ、その「味」について、「おいしかったー」、「まずかったー」ということを言っているに過ぎないのではないか?


しかし、味の話だけをするのであれば、別にドーナツは「ドーナツ」である必要がない。少なくとも、あのようなリング状の形をしている必要はなくて、別にバラバラに引きちぎられたかけら(油で揚げた小麦粉と砂糖のかたまり)を口に含んでいればいい、ということになる。


しかし、人は「ドーナツ」が美味しかった、というとき、やはりあのリング状の形をしているお菓子を目で見て、手に取り、それを囓って口に含みながら、その一連の動作の中で、しみじみと「ああ、このドーナツ、美味しいなあ…」と呟くのではないか。


その意味では、他ならぬこの「ドーナツ」が美味しかった、と思うためには、実はあの形状の真ん中に開けられた「穴」は必要不可欠のものだ、ということになる。


しかし、繰り返すがこの「穴」それ自体は、手に取ることも口に含むこともできない。


ここで考えていただきたいのは、ここでの「ドーナツ」の話は、「文学」についての比喩たりうる、ということについてである。


実は、文学作品を読んで「面白い」「つまらない」という感想を持つとき、人はこのドーナツ」の「穴」に相当するものまでを手にした上で、そのような感想を持っているのではないか?


では、「文学」作品において、ドーナツの本体(手に取り、口に含むことができるもの)と「穴」(手に取ることも、口に含むこともできないもの)に対応するものとは何なのか?


ドーナツの本体に相当するのが、そこに書かれている(印刷されている)「本文」そのものであることは言うまでもないだろう。


では、「穴」に相当するのは何か?


それはさしあたり、そこに書かれていないもの(印刷されていないもの)である、ということになるだろう。


しかし、ここで注意が必要なのだが、私がお話ししたいのは、文学を「研究」することとは、書かれてもいないことを勝手に議論することだ……ということでは決してない。


再びドーナツの比喩に戻るなら、ドーナツの「穴」はただの空間ではあるけれど、それは決してドーナツと無関係にそこらへんに転がっているもの
ではない。


同様に、文学研究者が「文学」作品の「本文」に書いていないことまでをも考える、というとき、それは何も、「本文」を離れて好き勝手なことを放談する、ということを意味するわけではない。


そうではなく、「文学」作品を「研究」する、というのは、あくまで本体を食べるだけではなく、その本体を成立させている背景/条件の部分、すなわち「穴」の部分までをも視野に入れて考察する、ということに他ならない。


つまり、ここで言いたいことを一度まとめると、次のようになる。


「文学」作品を「研究」の水準で「読む」こととは、そこに何が書いてあるのか(どんな「味」がするのか)だけを問題とするなりわいではない。


「文学」作品を「研究」するとは、そこに書かれてあることを正確に読むだけではなく、むしろ、そこには何が書かれていないのか(どんな「穴」が開いているのか)、ということをも問うなりわいである。


「穴」の形状や大きさの測定に始まり、そのような「穴」をあけることの狙いやその効果について考え、その「穴」こそがドーナツ本体のあり方を構成している、ということを、さまざまな角度から検証する。


本体(=文学における「本文」)を吟味するだけではなく、その本体を支えている諸条件をも問い直すこと、これが「研究」の入り口である。


その意味で、大学で学ぶ文学「研究」とは、高校までの「国語」の時間で養われた力(=示された「本文」を正確に読みとる力)を基礎条件とはするが、それは出発点であって目的ではない。


しかし、なぜそんな面倒なことをするのか? おいしいものについて「おいしい!」と言うように、面白いものについて「面白い!」と言うだけでは不足なのか?


この問いに対する答えは、「言葉」とは人間にとってどういうものか、「言葉で表現する」とはどういうなりわいなのか、ということをめぐるかなり根源的な問題になるかもしれない。しかし、話は実は単純なことでもある。


つまり、こういうことだ。「言葉で何かを語る」ことは、必ず「何かを語らない」という判断とセットでなされる行為である。従って、両者を切断してしまっては、ものを「考える」ことにつながらないのである。


たとえば、「昨日の晩ご飯、何食べた?」と聞かれて「カレーライス」、と答えたとする。


無論、本当にカレーライスを食べたのならば、その言語表現にウソはない。


しかし、このように考えてみることもできる。そのカレーライスには福神漬けは添えられていなかったのか? そのとき水は飲まなかったのか?


どちらも食卓の上にあったのだとすれば、なぜ自分は「昨日の晩ご飯はカレーライスと福神漬けと水」だったと答えなかったのか?


あるいは、そのカレーのルーの中にはジャガイモとニンジンとタマネギと豚肉が入っていたのだとしてら、なぜ自分は「〈ジャガイモとニンジンとタマネギと豚肉が入ったカレー〉を白米にかけて食べた」、と丁寧に説明しなかったのか?


つまり、同じことを語るにもいろいろな〈語り方〉があったはずだし、その中の一つの〈語り方〉を選んだ、ということは、そのほかの〈語り方〉の可能性を消去して語ったということである。


つまり、改めて単純化して言うと、これは「言葉で何かを語る」という行為をしつつ、同時に他の「何かを語らない」という行為をした、ということでもある。


ドーナツの比喩で言えば、語った部分が口に含んだ本体、語らなかった部分(しかし、語った部分と不可分の部分)が「穴」ということになる。


つまり、文学を研究する、ということとは、このような〈語る/語らない〉のメカニズムそれ自体をも捉えていく、という態度を基本とするなりわいである。


そして、〈何が書かれ、何を書かれないのか〉ということを考えることは、そこに「何が」書かれているのか、だけではなく、「どのように」書かれているのか、を考える態度の確立へとつながる。


この視点を獲得できたとき初めて、人は「文学」(を含む「言葉で表現されたものすべて」)を「研究」するスタートラインに立つことができる。つまり、人間の言葉による知的営み=「文」(人文知)を学ぶ場に参入することができる。


「文学」の研究をはじめ、「文学部」で学ぶこのような思考の訓練は、たとえば《メディアリテラシーの根本的な鍛え直し》につながる、という意味では、実は極めて「実学」的なものでもある。


それは一言で言えば、簡単には人に騙されないようなリテラシーを持つことにつながるからである。


たとえば、商取引や外交などのフロントラインは、悪く言えば騙し合いの世界である。


あるいは、各種メディアが報じる情報は、政府によって予めスクリーニングされ、操作されているかもしれない。


生活のあちこちにあふれている広告表現は、悪質なプロパガンダかもしれない。


例えば、日本が戦争に加わることはない、とか、憲法を変えることについて恐れる必要はない、という政治家の言葉は本当なのか? そこでは、何か大事なことが語られていないのではないか?


様々な局面で、言葉はあふれている。ネットにアクセスすれば、膨大な文字の蓄積に対峙することになる。


そのとき、我々はそれらの言葉を正しく(書かれてある通り「正しく」)読めば、それで間違いないのか? 


そんなことを考えるための最も基礎的な訓練を行う場所が、文学部であり、文学研究の世界だ、と考えていただければと思う。


以上の話を踏まえて、最後に私の専門である日本の近現代文学研究に即して、〈実践編〉的な話をしておく。


高校一年の「国語」教科書にしばしば登場する現代小説に、川上弘美の「神様」という短篇がある。


「くまにさそわれて散歩に出る」という印象的な一文で始まるこの不思議な短編小説は、近所に引っ越してきた「くま」に誘われた「わたし」が、お弁当を持って二人連れだって近所の川原へと散歩に行って帰ってきた、という一日の出来事を描いたものだ。


例えば、高校の授業では、「くま」とはどのようなイメージをもった存在か、本文の記述を踏まえて読み取ろう、などといったことを考える。


そこで、生徒は本文全体を隈なく読み返し、いくつかの記述を丹念に拾い上げることを求められる。それは例えば次のようなものだろう。


「近ごろの引っ越しには珍しく、引っ越しそばを同じ階の住人に振る舞い、はがきを十枚ずつ渡して回っていた。」


(引用者注、「わたし」から名前を訊かれた際の返答として)「今のところ名はありませんし、僕しかくまがいないのなら、今後も名乗る必要がないわけですね。呼び掛けの言葉としては、貴方(あなた)が好きですが、ええ、漢字の貴方です、口に出すときに、平仮名ではんは漢字を思い浮かべてくださればいいんですが、まあ、どうぞご自由になんとでもお呼びください。」


(川原での食事の後に)[…]くまは袋から大きいタオルを取り出し、わたしに手渡した。/「昼寝をするときにお使いください。[…]もしよかったらその前に子守歌を歌って差し上げましょうか。」


こうした記述(=本文として書かれていること)から読み取れるのは、「くま」=ちょっと古風なくらいに、人に対する気遣いをすることができる、とてもやさしい存在……、ということになるだろうか。


しかし、先ほどお話ししたような考え方―ーつまり、この小説の本文には何が「書かれていない」のか、ということをここで実践してみたらどうなるか?


この小説は、「わたし」の側の一人称語り、という形式で成立している。従って、いま拾い取った「くま」に関する描写は、基本的にこの「わたし」というフィルターを介したものだった、ということになる。そして、その描写はそれなりに細かい。


さて、では翻って考えてみるに、この「わたし」は自分自身のことについては、どれほど具体的に語っていただろうか?


たとえば、この「わたし」は何号室に住んでいるのか?


「わたしは」冒頭近くで、「三つ隣の305号室」に「くま」が引っ越してきた、とは記している。しかし、当の自分自身がどちら側の「三つ隣」なのか(302号室なのか、308号室なのか)ということについては、明確に示さない。


あるいは、次のように問うてみることもできる。「くま」の呼称を問題にした「わたし」は、自分自身の名前を示していただろうか? と。


たしかに一人称の文体なので、「わたし」は自分の名前をわざわざ示す必要はないかもしれない。


しかし、実は「くま」は 、最初に引っ越しの挨拶に来たとき、「わたし」の部屋の「表札」を見て、以前に大変世話になった人と同じ姓だ、ということを話題にしていたりしたはずである。


しかし、「わたし」はそれでも自分の姓そのものを本文に書き込むことをしない。


極めつけは、小説の末尾近くの内容だろう。


「わたし」は自分の部屋の前まで送ってくれた「くま」と別れ、「眠る前に少し日記を書いた」という。


…ということは、この「神様」の本文に相当するものは、このとき「わたし」が書いた日記そのものではない。


もしかすると、この「日記」には、「くま」と過ごした一日についての、より詳細な記録が書かれたのかもしれない。「くま」に関する率直な思いが書き付けられているのかもしれない。


しかし、「神様」という小説の本文それ自体には、「悪くない一日だった」という、何とも微妙な表現しか書かれていない。


いったい「わたし」は何を「書かなかった」のか? その判断は何に基づくのか? このような判断を下す「わたし」はいったい何者で、「くま」のことを本当のところ、この一日のことをどのように思っているのか?


こうした、書かれなかった何か=ドーナツの「穴」の存在に気づき、本体と「穴」との力関係を測定しようと試みるとき、はじめて文学「研究」はスタートする。


最後に繰り返しておくと、こうした発想は日常生活のあらゆる場面で「役に立つ」。


もしかすると、ちょっとひねくれた人、という印象を周囲に与えるかもしれないが、それぐらいの構えがないと、人は簡単に騙されてしまうかもしれないし、気が付くと取り返しの付かない間違いを犯しているかもしれない。


「文学部」での学問は、そういった間違いを予防する知見を学び取る場である。


*先日行った、とある高校での出張講義の内容のうち、大学・学部の説明に関する部分を省略して、後半部分でお話しした内容を再構成したもの(当日、時間の関係上、省略した部分についても加筆した)。

「必要なの?」という声にどう応えるか

http://www.asahi.com/articles/ASH685CJLH68UTIL01W.html


http://www.asahi.com/articles/ASH653VNRH65UPQJ001.html


こうした国立大学の人文社会系、教員養成系への改廃要請の話、これからどうすべきなのか、というのはかなりの難問だろうと思っている。


学問の自由を守れ、というのは一番の正論だが、これは学者の皆さんのフェイスブック談義=床屋政談の外側にはなかなか届きそうにない。そもそも、そういうアカデミックなものへの拒絶反応に端を発するのが現状なのだろうから。


そもそも、本当は「人文社会系、教員養成系」といったユルい括られ方からして、本当はまずい状況であると考えるべきだろうが、ここで人文系/社会系/教員養成系の差異とそれぞれの有用性を説いても効果的ではない。


たぶん、もともとどこの大学でもそれほど仲良く連携していたわけでもない各学部がそれぞれの有用性を説いたら、じゃあ、どこが一番要らないのだ、という順位づけに加担することにしかならない。


といって、文系の教養は重要なんだ、と団結して言い募っても、じゃあ、思い切ってリストラして、一つの新学部(教養部の復活?)にまとまってくださいよ、ということになる(そして、授業は英語でお願い、というおまけも付いてきそうだ)。


教員が教員だけで(大学の中、アカデミズムの中だけで)団結して声をあげても、状況が好転する見込みは薄い。


しかし、改めて考えてみると、いまの「改革」要請は、つまるところ人材育成への要請なのであって、学問や研究の圧迫が第一義ではない。


要は「使える人材」を育成してくれ(それにしても最悪な表現だ。美味しい肉になる家畜を出荷してくれ、みたいなこととしか思えない)、ということがいま求められていることの中心なのだとしたら、返すべき答えは、「これまでだって、ちゃんと立派な卒業生を送り出してきたではないか!」(もちろん、彼ら彼女らは家畜でも社畜でもないぞ!)ということではないのか。


アカデミズムに対して妙なルサンチマン(?)を募らせている政治家や官僚にばかり声をあげさせないために、大学関係者がいまなすべきなのは、かつて大学で有益な時間を過ごし、その後社会で活躍している卒業生たちと連携する、ということではないだろうか。


本当は、社会で活躍している卒業生が出身大学に寄付をし、その出資で学んだ学生が、卒業後に寄付する側に回る、というようなサイクルで大学が経済的に一定程度の自律性を確保できればいいわけだけれど、それが難しい国立大学の場合、せめて、卒業生の皆さんから《「ことば」の寄付》を募ったらよいと思う。


国立大学文系学部で学んだ時間があるから今があるのだ、ということを、なるべく多くの卒業生の皆さんから寄せてもらう、というのも、大学「改革」の波に対する地道ではあるが有効なカウンターなのではないか。


だいたい、どこでもそうであろうと思うが、地方国立大の就職率、卒業生の地域への貢献度は、今でも決して低くないのではないか? この辺りも、今後はもっと可視化していかなくてはならないのかもしれない。


それにしても心配なのは、いまの大学改革が入試改革と並行して進行しようとしていること。


学力試験を軽視し、それ以外の要素での選別の方向に舵を切れば、当然、子ども時代にいろいろな経験をさせてもらえる富裕層出身者が圧倒的に有利になり、個人の努力による階層上昇というルートのない、階層固定型の社会になる。


文系の教養をも大学で学んで社会をリードする立場に回るのは、富裕層出身者だけ、学ぶ場は高い学費によって優れたスタッフを取り揃えたごく一部の有名私立大だけにある、という状況。


そして、こうした富裕層出身の一部のエリート層が、職業訓練学校を出た「使える人材」を効率よく使う社会の実現、というのが、大学「改革」論者の見通しなのかもしれない。


しかし、そのとき必ず出てくるのは、やはり「最近の若いモンは『使えない』なー」という声なのではなかろうか?


だいたい、どの業種にも対応できる「スキル」を学校で一律に教えることなどできないし、そもそも必要とされる「スキル」の質など、あっという間に変わっていくはずではないか。


教育について、言いたいことばかり言う「産業界」の皆さんは、いい加減、学校教育(公教育)にフリーライドするのではなく、自前で教育機関でも作って、「人材教育」(人材「飼育」?)に乗り出せばよいのではないか。


そして、従来型の学校教育と競いあう状況が生まれるなら、それこそがお望み通りの競争原理というやつではなかろうか?

最近の仕事(2015年3月分)

「地図と痕跡―大岡昇平『武蔵野夫人』論」
千葉大学「人文研究」44、2015・3)


創元文庫版以後、今日における流布本文である新潮文庫版まで、『武蔵野夫人』の巻頭にはかならず「『武蔵野夫人』小説地図」と題した図版が掲載されており、この小説の読解は概ねこの地図に導かれるようにして、武蔵野の地理/自然に関する描写を重視する方向で行われてきた。


しかし、地理/自然を強調するこの地図には、本文中に散見される敗戦後=占領下における武蔵野の〈現実〉が欠落しているのではないか?――こうした観点から、この論文ではいわば、地図を持たずに『武蔵野夫人』のテクスト(に表現された武蔵野の空間)を渉猟し、占領下の武蔵野に関する〈現実〉の位相を読みとることを試みた。