days of thousand leaves

文学研究者のひとりごと

太刀とペン

日本文学協会の大会(文学研究の部)に参加してきた。テーマは「定番教材を問い直す―芥川龍之介羅生門』。


特に思い入れのある小説でもないし、高校で教えていた頃にも授業で扱ったことはないのだが、討議の内容には、いくつかの点で刺激を受けた。パネラーは前田雅之氏(古典文学)、石川巧氏(近代文学)、相沢毅彦氏(国語教育)の3名。


報告は、それぞれの立場から「羅生門」を読み込んでいくものだったが、個人的には、飢えに苦しんでいた下人が、老婆を侮蔑する快楽に目覚めていくプロセスについて指摘し、その彼が飢えてなお太刀を手放さない不自然さについて指摘する石川氏の分析が興味深かった。


また、討議の中で兵藤裕己氏の質問に答えて前田氏が述べていた、典拠である今昔物語集の文体的特徴と芥川のバタ臭い(?)文体とのギャップの問題も興味深いものだった。この小説は周知のように、自己言及的に自らの「書く」行為に言及する部分を持つが、こうした小説の構造を考える上では、典拠と付き合わせながら構文や語彙の選択に関するミクロな分析は避けられないのだろう。


ただし、討議の基調にあったかに思われる、言葉と超越性(?)に関する認識にはかなり疑問を感じた。飢えて死ぬよりは死人の髪を抜いて生きることを選んでいる老婆の〈動物〉的な生のありように下人は衝撃を受け、そのまま姿を消す……、というような作品理解がどうやら討議の中では共有されていたようなのだが、「羅生門」とは本当にそんな作品なのだろうか?


この超越性をめぐる議論は、改稿された後の流布本文の末尾にも適用され、「下人の行方は、誰も知らない」とあるからには、われわれ読者も、下人が直面した(とされる超越性?)にうたれなくてはならないのだ、という理解につながるようなのだが、この点は理解がついていかなかった。


たしかに、「誰も知らない」とされている下人の行方について考えさせる(物語の続きを書いてみる)というような作業を授業の中で行わせることの暴力性について批判する、というレベルにおいてなら、理解はできる。


しかし、ここで考えるべきなのはむしろ、なぜ語り手はわざわざ、下人の行方を「知らない」ということを書くのか、ということの方である。もっと言えば、語り手に「知らない」と書かれてしまうからこそ、読者は余計なことをあれこれ考えさせられてしまうのではないだろうか?


よく知られているように、初出本文でこの末尾は、「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつゝあつた。(をはり)」、というものだった。それが単行本収録に当たって、現行本文に変更される。


確かに初出の形だと、いわゆる余韻は残らない。しかし、普通に考えて、下人の末路はそれ以外にはなさそうだ、という意味では無理のない、自然な一文ではある。


無論、そんな終わり方では身も蓋もなくてつまらないし、まして教材としては魅力半減であろう。国語教育的な観点からすれば、この末尾の一文が現行の形になったからこそ、この小説は教材たりうるのかもしれない。


しかし、改めて素朴に考えてみると、どうだろうか? もし、初出の形では余韻が足らない、読者に下人のその後についての想像を委ねたい……というのであれば、そこで行われる改稿の可能性としては、末尾の一文を割愛する、ということもあり得たのではないか。


それは、以下のような終わり方である。

暫、死んだやうに倒れてゐた老婆が、屍骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆は、つぶやくやうな、うめくやうな声を立てながら、まだ燃えてゐる火の光をたよりに、梯子の口まで、這つて行つた。さうして、そこから、短い白髪を倒にして、門の下を覗きこんだ。外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである。(をはり)


何の違和感もない。例えば、この場面を映像としてイメージしようとするなら、これで過不足ないと言える。 それなのに、この語り手はわざわざ、下人の行方について「知らない」と書き込む。よく考えてみると、これはいささか過剰な表現ではないだろうか? 「知らない」のであれば、単に書かなければよいだけのことではないのか?


いや、それどころか、むしろ「知らない」とわざわざ書くから、下人の行く末が不可知の何かとしてフレームアップされてしまう、という意味では、読者に対して余計なことをしてくれているようにも思えてくる。そして、このことはおそらく、前田氏が指摘していた、この語り手の文体的特徴の問題と深く関わる。


しかも、ご丁寧なことに、語り手はここでわざわざ、「誰も」知らない、という。自分も含めた「誰も」が、下人の行く末については知りえないし語りえないのだ、と、わざわざドヤ顔(?)で宣告するのである。


従って、実はこの小説を読む上で読者が最終的に突き当たるのは、この語り手のドヤ顔に対して従属するのかどうか、という問題ではないだろうか。


私はこういう語り口の小説は端的に言って好きではないし、だからこれまで、この小説を教材として扱ったことがないのだろう、という気がしてきた。教室でこの小説を扱い、とりわけ末尾部分について考えさせるとすれば、その時、教員は語り手が読者に対して見せるドヤ顔を、自分が教室で生徒に対して反復することになるのではないだろうか。


しかし、国語教育の相沢氏は、このような(改稿後の)末尾部分を教材として高く評価する、という。どんな言語表現も必ず全てを十全に示すことなどなく、必ず語りえない空白なり闇なりを伴う、ということを、教材としてのこの小説を使って考えさせられるのではないか、というわけである。


どうやら、こうした教材を介して、他者性ないし超越性といった問題――言語によって容易に語ることの出来ない領域(=「黒洞々たる夜」?)の存在を生徒に教えるのだ、ということのようなのだが、ここは大いに疑問を覚えたところである。「羅生門」の本文には、どこにも「他者性」や「超越性」は現れておらず、この小説の本文は、語り手によって末尾に至るまで十全にコントロールされているのだから。


自分にもわからないことを、「な? わからないだろう?」と偉そうに示してみせるというのは、実はかなり権力的な振る舞いである。語り手はここで、書き換えられた末尾の一文において、下人の行方を考えることを一方的に読者へ強要し、しかもその答えを出すことについては禁じる、ということになるのだから。


変な言い方になるが、わからないことに対してはさし当り沈黙するという美徳(?)がこの語り手には欠落している。いつまでもペンを置くことができずに、自らの言葉にしがみつく語り手……。そして、この往生際の悪さは奇妙なことに、石川氏が指摘していた、飢えてなお太刀を手放さない(手放せない?)あの下人のあり方によく似ている。


そして、さらに言えば、こうした饒舌さと権力性が、昨日起きたばかりで不明なことの多いパリのテロについて饒舌に語って憚らない、討議冒頭における相沢氏の態度とも相同的だったのは何とも皮肉である(この点を石川氏は最初から批判していたが、相沢氏には何も伝わらなかったようである)。


ちなみに、議論の中で語られていた、老婆の存在に人間としての理知を踏み越えた「動物」的な生を見る云々……といった話は、完全に悪しきロマンティシズムであろうと思われる。


例えば、飢えのあまり理性を失った老婆は、屍骸の肉を削ぎ落とし、貪り始めた……などという凄惨な場面が描かれているならば、それは何とも「動物」的な生のありようだということになるのかもしれない。


しかし、作中での老婆はせいぜいのところ、屍骸の髪を抜き、それで鬘を作るだけである。これは、屍骸を損壊してはならない、というような倫理意識に照らしても、まあギリギリのところではないだろうか。


それどころか、ここで老婆のしていることは、ある意味ではとても理にかなった人間的(?)な行為だと見なすべきかもしれない(討議の中で、前田氏はこの行為に関する老婆自身の説明を、「屁理屈」だと述べていたが、むしろ老婆の言い分は身も蓋もない「正論」だったのかもしれない)。


老婆がしていることは、不当に仕入れた材料を使用してではあれ、自分で商品=鬘を作って売りに出し、その対価を得るという経済行為である。その意味で、これはおよそ「動物」的な行為などではない。


むしろ、こうした経済行為を行う点において、老婆は確実に人間社会の内側に留まり続けている。そして、このことは、直後に老婆の衣服を剥ぐことになる下人もまた同じである。彼もまたこの後、不当に仕入れた(老婆から強奪した)着物を転売することで、糊口をしのぐのだろうし、さらに重ねて(初出稿が明示していたように)「強盗」となって金品を奪っては、それを食物に交換するのだろう。


つまり、老婆にせよ下人にせよ、彼らは深刻な飢えの中にあってなお、人間社会の経済サイクルの中に留まり続けているのであり、その意味で言えば、この小説には人間/理知の彼岸=〈動物〉的な生のあり方など、どこにも語られてはいない。


以上、帰り道につらつらと考えてみて、「羅生門」を教材として扱うのは、やはりかなり難しいような気がしてきた。かつて、他の定番教材(「山月記」とか「舞姫」とか)は避けることなく扱っていた自分が、どうして「羅生門」だけは扱ったことがなかったのか、という理由を自覚することが出来た、という意味では、参加した甲斐のあるシンポジウムだったかもしれない。